ひどい人に惚れたものです 2012/10/04スパークにて無料配布









 世界にはいくらでも恋の素晴らしさと愚かさを語る歌がある。街中を歩けば有線から流れてくるし、テレビをつけていれば歌謡番組を見ていなくてもCMから聞こえてくるものだ。
 恋をするだけで世界が変わる人種もいれば、この世の終わりだと嘆く人もいるわけで、僕はどちらからと言えば後者だった。だけどそれは決して僕の責任じゃない、と思う。いや、たぶん大多数の人間がそうだと言ってくれるだろう。僕の場合、どう考えても思いを寄せた相手が悪い。
 新宿の情報屋と呼ばれる彼に恋をしているんだと気付いたきっかけがこれまた酷いものだった。
 僕の好きな人は歳は八つも離れているし、住んでいる場所も電車で数分とは言え、歩けばけっこうな距離がある。普通に暮らしていればほぼ接点はないんだけど、彼とは定期的にオンラインでは会っていた。他愛ない噂話をしたり、内緒モードでちょっとした密談をしたり。
 どうやら暇をもてあますと余計なことをしたくなる習性を彼は持っているらしい。だからチャットで、『最近平和ですねえ』と言い出したときは何かまたやらかすんだろうなと思った。それを止めも諌めもしないのは僕なんかがどう言ったところで彼は自分のやりたいことをやめたりなんかしないからで、それなら楽しんでしまったほうが得だ。だから他のチャットメンバーに見えないように内緒モードで『今度は何をやらかすんですか?』と尋ねた。対岸の火事であれば火の粉はかからず、自分は安全な場所で観客として見ていられる。多少巻き込まれたとしても大やけどを負わないのであれば文句はない。
 彼から返ってきた答えは『そうだねぇ。ずっと気になっていたことがあるから、それを解決してみようと思うよ』というものだった。いまいち要領を得ないけど、情報屋を名乗る彼のずっと気になっていたこと、は興味をそそられる。何なんですか、教えてくださいよ、と文字を飛ばしたがそれに返事はこなかった。用事があるから落ちますね、と甘楽さんは消えてしまったからだ。
 答えがもらえなかったことに少しばかり不満を覚えつつも、まあ臨也さんだしなと思い、残った他の面子との会話を楽しもうと思考を切り替えた途端、部屋にノックの音が響く。時計を見ると日付がもう間もなく変わるような時間帯だった。こんな遅くに来る人間に心当たりはなく、思わず物音をたてないようにじっと身を縮こまらせる。

「帝人君? いるんでしょう、開けてくれない?」
「……臨也さん?」

 ほんのついさっきまで文字で会話していた相手の涼やかな声に慌てて腰を上げ、数歩で辿り着く玄関の戸を開けた。

「やあ、こんばんは」
「どうも……」

 一応礼儀だと思い小さく会釈する。にこにこと微笑んでいる彼は一見、機嫌が良さそうに見えた。
 もしかして酔っ払って、それでこんな時間に来たんじゃ、なんて思ったけどそのわりには酒の匂いはしないし、そもそも酔った勢いで僕の家に来るはずがない。
 薄い笑みを乗せたまま臨也さんはじっと僕の顔を見つめてくる。上から下までまるで値踏みするような視線は居心地が悪い。その不快感を露骨に顔に示すように眉間に皺を寄せ、こんな時間に来るなら連絡くらいくださいよ、と文句を言うと彼は小さく笑った。

「ごめんね。ほら、月がきれいだったから。思わずふらふらと」
「は、はぁ……」

 言われて視線を臨也さんから彼の後ろの方に向ける。確かに暗い夜空には一際輝く丸い月が見えた。星の明かりを押しのけるような光量のそれを見て、そういえば今日は満月だったっけと思い出す。月の満ち欠けなんて普段あまり気にしてないけど、晩ご飯を買ったコンビニのレジのところにあったポップに『今晩は満月! 月見のお供にどうぞ』と値引きシールの貼られたお団子が置いてあった。今空を見上げるまですっかり忘れていたけどさ。
 それにしても月がきれいだから夜の散歩をしてるなんて風流と言うべきか、また複雑な病をこじらせてると呆れるか微妙なところだ。新羅さんに言わせると臨也さんは中二病とやらにかかっているらしいから、それなら満月にはしゃぐのもわからないでもない。

「あの……何の用ですか?」

 視線を彼に戻し、緩い弧を描く口元を見ながらそう尋ねる。まさか本当に意味もなく僕の所へ散歩のついでにきたわけじゃないだろう。彼の住み家である新宿のマンションからここまで来るには距離がありすぎる。さっきまでチャットルームにはいたけどたぶん携帯で会話していたんだろうな。そうまでしてネット上でしゃべりたいのかと突っ込みたい気持ちはあるが、自分だってパソコンが使えないときは携帯でチャットルームに顔を出している。ネットへの依存度が五十歩百歩のような僕ができる質問じゃない。

「うん、ちょっと確認しに来たんだ」
「確認?」
「そう。……帝人君、目を閉じてくれない?」

 思わず目を瞬かせる。目を閉じる? 何でいきなりそんなことをしないといけないのか。どう考えても怪しい。何せ言ってるのが臨也さんなのだし。

「え、嫌ですよ。何する気なんですか」
「何って、まあ、ちょっとね。閉じないならそれはそれで構わないけど、君のためだよ?」

 僕のため、なんていかにも彼らしい言い方だ。
 それに自然と胡乱な目になりながら、何割くらいが僕のためなんですかと問い返す。

「五割くらいかな」

 思ったより多い。半分は僕のためで、もう半分は彼自身のためなんだろう。臨也さんが自分の利益がないことをするわけがないんだし。
 しばらくじっと彼の顔を見つめ、結局溜め息を一つ吐いて言われるままに目を閉じた。理由を聞きたいところだけど、言う気があるなら僕が聞くよりも先にあのぺらぺらとよく回る口が動いてるはずだ。そうしないということはどう尋ねたところでのれんに腕押しにしかならないんだろう。それならさっさと言うことを聞いてしまったほうが早い。
 何か嫌なことをされるかもしれないという不安より、彼がどんなことをしでかしてくれるんだろうという期待が勝つ胸中で、あれ、そういえばどれくらい目を閉じていればいいんだろうとふと疑問が沸いた。

「い、」

 臨也さん、と名前を呼びかけた唇に、ふに、と何か柔らかい感触がした。思わず目尻がひくりと引き攣る。
 もしこの触れてきた何かがものすごく熱かったり、逆に冷たかったりしたら咄嗟の反射で頭をのけぞらせていたと思う。だけど当てられたものに自分との唇の温度差を感じない。それでも敏感なその部分に何をあててきたのかと気になり、ぱちりと目を開けた。
 最初に視界に入ったのは睫毛だった。伏せられた、長くて黒い睫毛。マッチ棒くらい乗りそうだ。睫毛があるということは、これ、顔だよね。こんな至近距離で見ても鑑賞に堪えうるんだから臨也さんってやっぱり容姿が整っているんだな、なんて呑気に考えていたのは現状をいまいち把握していなかったからかもしれない。
 ふいにふわりと花のような香りが漂った。臨也さんのことだ、きっと香水くらい身にまとってるんだろう。今までこんな匂いを彼から感じたことはなかったけど、それはここまで至近距離で接したことがなかったからだ。唇を触れ合わせるくらいの距離じゃないとわからないような香りってなんだかいやらしい感じがする。
 ぐ、と押しつけられるような圧力を感じた後にすっと臨也さんの顔が遠のく。無意識に視線は今、彼が寄せていた唇へと向けていた。赤い舌がちろりと舐めたそこは唾液で少し濡れ、何だかそれが妙に淫猥な仕草に見える。いや、臨也さんの存在そのものが妙にセクハラ紛いのところがあるんだけど。だってこの人、何か変な色気をまき散らしている気がする。口元に手を当てたまま視線を下に向け、何か考え事をしている仕草ですら何か意味があるもののように見える。

「ふうん……」

 何か言うのかと思ったのに臨也さんはそれだけ呟くと、くるりと背を向けた。そのまま階段を降りていく後ろ姿を呆然と見送り、彼の姿が視界から消えた後に玄関の戸を閉める。
 そのままずるずるとその場にしゃがみこんだ。しゃがみこんだ、というよりも腰を抜かしたが正しい。
 何、何だ今の。え、どう考えてもキスだったよね、唇同士を触れ合わせるのがキスって言うんだよね。外国ではキスなんて挨拶程度らしいけど、臨也さんは海外で暮らしていたっけ? 違うよね? 語学に長けててもそんな習慣なんか持ってなかったよね?
 一体誰に問いかけているのか自分でもわからないが、ぐるぐると混乱した頭で今の行為の意味を考える。震える両手で唇を押さえると、掌とそう変わらない温度のはずなのに熱でもあるような気がした。
 指先に呼気が当たる。何度も瞬きを繰り返してるうちにふと、熱いなと思った。昼間はまだ少し汗ばむけど夜は窓を開けていれば涼しいはずなのに、何でこんなに顔が熱いんだろう。

「…………」

 ゆっくりとその場から立ち上がり、つっかけていた運動靴を脱いでトイレの戸を開ける。用を足したいのではなく、単純にここにしか鏡がないから開けただけだ。
 胸より上しか映さない小さな鏡には顔を真っ赤にした僕が映っていた。耳どころか首まで朱く、今起こったことを知らない人から見たら病気か酒でも飲んだのかと言われそうなほどだ。人間ってこんなに皮膚の色が変わるものなんだと感心してしまう。
 こくりと喉を鳴らし、そっと鏡に映った自分の唇に指を這わせた。厚くも薄くもない、極々標準的なものだと思う。奥歯を噛んでいるから口角は引き締まっているように見えるそこを何度も撫でてはみるものの、当然指先には冷たい鏡の温度しか感じられなかった。
 だから臨也さんが何でキスをしたのかわからない。思わずしたくなるほど魅力的なものじゃないし、何より僕は男だ。同性にキスなんかして何が楽しいのかとそこまで考えてようやく、自分が今されたことにまったく嫌悪感を抱いていないことに気がついた。
 普通男にキスなんかされたら吐き気を覚えてもいいはずだ。唇を触れ合わせていた最中に殴ったって誰にも咎められたりなんかしない。それなのに何で僕は臨也さんがあんなことをしたのかと、その理由ばかり気にしているんだろう。
 どんな言葉を言われたとしても納得がいく答えなんてあるわけがない。たった一つしか。

「う、わー……」

 呻き声をあげながら視線を熱っぽい顔を映している鏡からその下にある蛇口へと向ける。
 まさかこんなやり方で自分の恋心を気付かされるとは思わなかった。何なんだあの人は。いきなり現れて、自分のしたいことだけして、何も言わずに帰るなんて意味がわからないにもほどがある。確認したいことがあるって言ってたけど、一体何を見定めたかったんだろうか。
 ……普通に考えたら、僕がキスをして嫌がらないか、もしくは臨也さんが僕にキスできるのかどうかの確認、だよね。同性にそういうことができるかどうか知りたかったという理由もあるかもしれないけど、それならわざわざ僕の家に来てまでする必要はないじゃないか。それこそネットで適当な相手でも引っかけて試したほうが後腐れがなくていい。
 次から次に浮かぶ考えは彼が僕だからこそしてくれたんじゃないかという浅はかな願望ばかりで、途中で嫌になり結局考えるのをやめた。どれだけ思考を巡らせたところで臨也さんにしか彼本人の思いはわからない。
 僕だからこそキスをした、というのなら、いずれ彼から行動を起こしてくれるだろう。そう思って僕からは何もしなかった。チャットには行かなかったし、電話もしていない。何度も着信がないか確認したり、メールがサーバーに引っかかってないか問い合わせをしたりはしたけど、でも彼からの連絡を待つのはおかしなことじゃないはずだ。だって一方的にあんなことをされたんだから、それ相応の理由をちゃんと聞かせてもらわないと。
 そうやっていつ彼からコンタクトがくるのかと待っていたのに何の音沙汰もなかった。それならあれは全て僕の頭が作り出した幻想にしてしまえば、この喉が渇くような焦燥感から逃げ出せるんじゃないか、いやでも、気付かされた自分の感情をなかったことにはもうできないしと悶々と悩み、考えすぎてそろそろ知恵熱でも出るんじゃないかと頭が痛くなってきたのは彼が訪れてから一週間経ったころだった。
 来るのか来ないのか……いや、これだけの期間連絡がこないということは、この先もないと思ったほうがいいに違いないと思っていた不安に対する恨み言の一つくらい、もうこちらから電話をかけて言ってしまおう。そう思って住所録から折原臨也の名前を表示させ、じっと番号を見つめる。あとは通話ボタンを押せばすぐにコール音が流れ、るけど、あれ。もしこれ、通じなかったら僕はどうしたらいいんだろう。お客様のおかけになった電話番号は現在、使われておりません、何てあの無機質なアナウンスが流れたら携帯を投げ捨ててしまうかもしれない。
 悪い想像ばかり頭に浮かべるのは少しでも自分が受けるダメージを減らすためだ。何せ相手はあの甘楽さんなんだから、一番悪い想像をしてその斜め下あたりのことが起こると思っていたほうがいい。
 通話が繋がらなかったらもういい。なかったことにしよう、犬に噛まれたと思って忘れることにする。犬でも小型犬と大型犬がいるし、噛まれたら狂犬病やらジフテリアといった感染症にかかることもあることを踏まえると、簡単に忘れられるんだろうかと疑問にはなるが考えたって仕方ない。
 よし、かける、うん、かけよう、このコールボタンを押すだけだ。たったそれだけ、と携帯を凝視しながら、震える指を伸ばそうとした瞬間にコンコン、とノックの音が狭い室内に響き渡りびくりと身体が跳ねた。このアパートは壁もドアも薄いから外の階段を上がってくる音で誰か来るかどうかわかるんだけど、集中していたせいでその音が耳に入っていなかったらしい。手元の携帯を見ると時刻は十時少し前だ。先週臨也さんが来たときよりも二時間くらい早い。でも、こんな夜分に来る知り合いを僕は彼以外知らない。
 一度ぎゅっと携帯を握りしめてからあまり音をたてないように立ち上がり、ドアスコープを覗くとそこには僕の想像通り、黒いコートを身につけた臨也さんがひらひらと手を振っていた。

「やあ、こんばんは」
「…………」

 先週とまったく同じ挨拶なのはわざとなのか、無意識なのか。そんなことを穿ちたくなるくらい、ドアの向こうにいる彼は僕にあんなことをしたくせに驚くほどいつも通りだった。いつも通り飄々として、目だけはあまり弧を描かない薄い笑みを顔に貼り付けている。先週至近距離になって気付いたけど、臨也さんって思ったより目つきがきつくないんだよね。ただじっと人を観察する癖があるせいかともすると睥睨しているようにも見えるときがある。容姿が整っている分、それが様になるのだから外見がいいって得だと思う。

「話があるんだけど」
「……何ですか?」

 ドアを開けないまま尋ねたのは先週の一件があるからだ。嫌でなかったとは言え、また同じことをされたら適わない。
 ちゃんと鍵が閉まってることを内側から確認し、ドアスコープ越しに彼の表情をじっと見つめた。

「開けてくれないの?」
「…………」
「ちゃんと顔を見て話がしたいんだけどな」
「…………」
「ほら、目は口ほどに物を言うってよく言うじゃないか。薄っぺらくて音が漏れる、あってないようなドアでも表情が見えないといまいち会話がしにくいと思うんだけど」

 言い返せば丸め込まれてしまいそうで、だからじっと黙って彼の口上を聞いていた。
 僕が何も言わないことに臨也さんは芝居がかった仕草で肩を竦める。天の岩戸みたいだね、なんて小さく笑いながら言う彼に、僕が出てこないことで困ってるような様子は見えない。
 知らずぎゅ、と唇を噛む。ドアを開けていなくて良かった。一々彼の態度に振り回されている姿なんて見せたくない。

「みーかーどーくーん?」

 間延びした声で呼びながら臨也さんは靴の裏をドアに押しつけた。そういえば、前に彼はこのドアを蹴破って入ってきたことがあったっけ。池袋に来たばかりの頃を思い出して少し懐かしい気持ちになる。でもそうか、これくらいの障害なら彼は片足で蹴破れるのか。
 前にこのドアが壊れたときは緊急事態だったけど、こんな夜中に物音を立てられたら困る。壊されるより先に開けるべきだろうかと悩む僕を知ってか知らずか(いや知るわけがないんだけどさ)、臨也さんは、まあいいかと呟いた。

「開ける気がないんだったらいいよ」

 もう来ないから、と臨也さんは背を向けるかと思いきや、徐にコートの内ポケットから一枚のカードを取り出した。

「俺のマンションは知ってるよね? 覚悟が決まったらおいで」

 そう言うなり臨也さんは手に持っていた薄いそれをポストの中に滑り込ませた。音もなく僕の足元に落ちたそれを慌てて拾う。黒地に白でラインの引いてある少し厚いシンプルなカードが彼の住居のカードキーなんじゃ、と思い当たった瞬間に慌ててドアスコープを覗いた。そこに臨也さんの姿はもうない。ドアを開けて階段の下を覗いたけど、タクシーが過ぎ去っていく姿がちらりと見えただけだった。

「覚悟が決まったら、って……」

 渡されたというか、一方的に押しつけられたカードを片手に口からぽろりと声が零れた。
 覚悟って何の覚悟なのか。正面から話し合う覚悟ってこと? そんなもの、臨也さんがあのキスの理由をちゃんと話してくれたらいくらでも対峙するのに。
 そろそろと視線を手元に向ける。表を見ても裏返してみても、マンション名は書いてない。セキュリティ対策でそうなっているんだろう。臨也さんがいくつか隠れ家を所有していることは自分の持っている情報網で検討がついているけど、僕がちゃんと所在地を把握しているのは彼の新宿の事務所だけだ。情報屋なんてうさんくさい仕事をしているわりに居所を隠す気があまりないらしいから、僕のような一介の高校生でもちゃんと情報を集めれば知ることができる。

「…………」

 両手でカードキーを握り、意味もなく少したわませた。力をこめれば簡単に折れてしまうだろう。
 これを壊してしまえばもうそれで、僕と臨也さんを繋いでる糸も切れてしまう気がした。僕のこの先かかる心労やら将来のことを考えるとそうしてしまった方がいい、と浮かんだ考えを頭の隅に追いやる。

「これ、返さないとダメだよね」

 そう、返しに行くだけだ。新宿の情報屋の事務所のカードキーなんて僕の手には余る。それに、ちゃんと理由を聞かないといけない。もしあんなことをした理由がただの興味本位だとか、嫌がらせだったのだとしたらそれ相応の仕返しをする権利が僕にはあるはずだ。
 行かないほうがいいという自分の中の警鐘を好奇心と探求心と、恋に暴走する期待で押しつぶす。虎穴に入らずんば虎児を得ず、なんて言葉を頭に浮かべながら僕は彼の事務所に向かう支度をすべく、部屋の中へと戻った。



 オートロックのエントランスはカードキーで当然簡単に開いた。分厚いガラスでできた自動ドアをくぐり、エレベータに乗って彼の事務所があるフロアのボタンを押す。特有の浮遊感を味わった後に外に出ると、煌々とライトのついた廊下に出た。ここにドアは一つしかなく、あとは奥に非常階段が見えるだけだ。新宿駅から徒歩数分のこの場所で、ビルのワンフロア分という広さがあるなら、一体家賃はいくらくらいかかるのだろうかと俗世的な疑問が頭をよぎる。少なくとも雨漏りがしたり、台風のときには屋根が吹っ飛びそうな僕のアパートの家賃一年分よりは高いんだろう。前に何かのテレビ番組で、山の手沿線の駅から徒歩三分、間取りが3LDKのマンションの家賃は月百二十万だと紹介していた。ここもそれくらいするんだろうかと思うと、この床ですらなんだか土足で歩いちゃいけない気がする。かといって靴を脱ぐわけにもいかないが。
 折原ファイナンシャルプランナー事務所と書かれた、シンプルながらも人目を惹くデザインの表札をじっと見つめる。そういえばあの人、表向きはそんな名前の仕事をしていたっけ。一体どっちが副業なのかわからないが、どちらも彼らしい悪辣さで楽しんでしているんだろう。そんな性格の悪い人間だとわかっている相手の懐に今から飛び込もうとしているんだから、僕も大概向こう見ずだ。
 ドアの前で深呼吸を繰り返す。吸って、吐いてとそれだけなのに、このドアの向こう側に彼がいると思うと勝手に心臓が走り出しそうだ。

「……よし」

 一言呟いて気合いをいれ、カードキーを差し込んだ。カチっと軽い音がしたからドアノブを回す。インターホンくらい鳴らしたほうが良かったかもしれないけど、せっかく合い鍵をもらったんだし、突然顔を出して驚く彼の顔でも見せてもらうことにしよう。そう思ってドアを開け放した。

「いらっしゃい」
「わ、えっ! うわっ……いっ」

 戸を開けた先には臨也さんがいた。それに驚いて思わず声をあげ、咄嗟にドアノブから手を離してしまう。抑えている手がなくなれば当然、ドアは閉まろうとするわけで、ゴン、という音と額を硬質な戸にぶつけた。痛い。

「何をやってるの」

 壁にもたれかかったまま愉快そうにそんな僕の様子を臨也さんは見ていた。大丈夫? と優しい声音で尋ねてくれるけど、それよりも。

「な、何でそこにいるんですか?」

 片手でぶつけた額をおさえながら聞いた僕の言葉に彼は、にぃ、とまるで童話の猫のように目を細めた。

「さあ? 愛とか?」

 両手でわざわざハートマークまで作って言った言葉のうさんくささと言ったらどうやって表現したらいいだろうか。白々しい、という言葉だけでできたようなその言葉と態度に半眼を向けると臨也さんは喉で笑った。自分でも嘘くさい態度だという自覚はあったようだ。
 大方、監視カメラでも設置してあったんだろう。このフロアには彼の事務所しかないから、エレベーターの近くにでも置いてこの階に来る人間をチェックしているに違いない。敵の多い人だから自衛の意味もありそうだ。帰るときにどこらへんにあるのか探しておこうと考えながら、さっき差し込んだカードキーを引き抜く。それをそのまま笑みを浮かべている臨也さんに渡そうとしたのに彼は受け取らず、おいでおいで、と言うように手招いた。

「ソファに座って待っててよ。お茶でも飲む?」
「え……いえ別に、いらないです、けど……」

 臨也さんは、そう、と言うと僕に背を向け奥へと歩いて行った。足元を見ると靴のままで、どうやら室内も土足で移動するようにしているらしい。まるで外国の住み家のようだと思うが、考えてみればここは事務所なんだし、会社だと考えれば土足なのも別におかしくないのかもしれない。
 彼の後に続くように中に足を踏み入れると最初に視界に入ったのは、二フロア分を使った吹き抜けだった。部屋の隅には階段も見える。玄関の外からはわからなかったけど、二階建てになっているらしい。

「ほら、こっち。座って」

 部屋の調度品は落ち着いた色合いのものばかりで、インテリアコーディネーターにでも内装を頼んだのかと思うような場所だった。キッチンの正面にあたる場所に置いてあるソファは成人男性が横になっても足が出るか出ないかという大きめのサイズだ。言われるままそこに座ると、ほどよい弾力に包み込まれる。手に当たる感触は滑らかで、たぶんこれ本革なんだろうな。

「ちょっと待っててね、すぐ終わらせるから」

 そう言うと彼はパソコンの前に腰を降ろした。僕が座っている場所から見ると二台あるパソコンの背面しか見えない。複雑にコードが並んでいるけど、絡まることもなくほこりも積もっていなかったから定期的に整理や掃除が行われているんだろう。それを彼がしているのか、誰か別の人間に頼んでいるのかまではわからないが、なんとなくぐるりと動かした視線の先のどこにもゴミ一つ見当たらない。すん、と意味なく鼻をひくつかせても、人が暮らしているからこそあるはずの生活感を匂わせるような香りもしなかった。たぶん、パソコンデスクの足元に置いてある空気清浄機がそれに一役買っているんだろう。
 広い室内に響く音は機械のモーター音と、臨也さんが叩くキーボードのタイプ音だけだ。この部屋自体が高い場所にあるし、防音もしっかりしているのか外の音も入ることがない。
 僕は鍵を返して、それと先週の一件のことを教えてもらったらすぐ帰るつもりだったんだけど、仕事をしている彼の手を止めるのは気が引けた。服のポケットに入れてきた携帯をそっと見る。液晶が差している時刻は、さっき彼が僕の家に来てから長針が一周するのに少し足りない程度の所だった。臨也さんの言うちょっと、がどれくらかはわからないが終電には間に合うくらいに帰れるだろう。今日は金曜だから電車の本数も多い。
 ただ彼が仕事をしている間は暇だな、と思っていると、まるでその思考を読んだかのように彼に声をかけられた。

「待たせて悪いね。こんなすぐ来てくれると思わなくてさ」

 話ながらも彼の手が止まることはない。どうやら会話しててもパソコン操作にあまり支障はないようだ。

「早くても明日くらいかなあって思ってたんだよ。ああもちろん、早いほうが嬉しいから気にしないで」

 早いほうが嬉しい、って、きちんと話し合いの場を設けることにかかるんだろうか。
 僕が来たことに対してこうやって好感情を表す言葉を言ってくれるなら、僕が覚悟していたような冷たい仕打ちはされないかもしれない。

「あの」
「んー? 何?」
「……何で、あんなことしたんですか?」

 一度生唾を飲み込むように喉を鳴らしてから、できるだけ声が震えたりしないように苦心して尋ねる。もし僕を嘲るようなことでも口にしたらあのパソコンの電源コードでも引っこ抜こうと視線を彼の方に向けた。

「あんなことって?」
「…………」

 わざと聞いているんだろうか。

「一週間前のですよ」
「ああ、あれ?」

 どうやら本当に思い当たらなかっただけらしい。パソコンのほうにも意識を向けているから思考が散漫になっているのかもしれない。
 やっぱり彼の手が止まってから聞いたほうが良かったんだろうかと思っている僕の耳に、彼はタイプ音と共に答えをくれた。

「理由なんて一つしかないと思うんだけど」

 僕だってそう思ってる。彼の考えているたった一つの答えと、僕が期待しているものが同じなのか。そこが問題なんだと、そう思っているのに臨也さんはつらつらとよくわからないことを言い出した。

「知ってる? 唇って皮膚の一部じゃなくて、食道の一部になるんだよ。帝人君って生物の授業、とってったっけ? 胚発生とかって聞いた覚えある? まあそんな知識は大人になってあまり使うものじゃないから、試験のときだけ記憶してればいいんだけど、唇は皮膚と同じ外胚葉じゃなくて内胚葉由来なんだよね。食道の他に肺とか、肝臓とかの内臓系と大元は同じなんだよ」
「はぁ……」
「あんまり興味なさそうだね」

 それはそうだ。どうしていきなり生物の講義を受けないといけないのか。それに僕は将来工学系に進みたいから選択は化学と物理をとっている。一応、一年のときに生物はやっているから臨也さんの言っている内容は理解できなくもないが、その話と先週のことがどう繋がるのかがわからない。それでも一応話は合わせたほうがいいんだろうか。

「唇は唯一露出している臓器、という話ですか?」

 そんな話を授業中に言われたような覚えがある。

「極論としては、だけどね。外気に触れているっていう点では一応目もそうだし……まあ、瞼があるから唇よりは守られてるかな」

 ぎぃ、と椅子がきしむ音が鳴る。臨也さんが背もたれにもたれたらしい。

「内臓の一部と考えたとして、当然それを皮膚は保護するわけだ。他の部位よりも薄い膜でしか守られていないから血管が透けて赤くみえるんだけど、そういう場所ほど敏感にできてるんだよ。ちょっとした傷ですぐに血が出るからね。感覚を鋭くしておくことで自衛しているってわけだ」

 彼の言葉を聞きながら自分の唇に触れる。ふに、と柔らかい弾力が返ってくるそこは確かに簡単に怪我をする場所だ。そういえばここにピアスを開けると耳のように簡単には塞がらないらしい。怪我がしやすくて治りにくいなんて厄介な部位だなと思う。

「血管が出てる場所ってだけで言えば、例えば首なんかもそうだね。まあそっちは唇と違って厚い皮膚も血管自体も太さがあるから赤くは見えないけど。でも触られたりしたら思わず身体が竦むだろ? あとは……くすぐったいなって感じるところはだいたい人間の急所になっているのさ。つまり、血が出やすいってこと」

 それで言うと、脇や背中なんかもそうなるんだろうか。まあ、人間の身体なんてどこを切っても簡単に血が出るようになっているけどさ。臨也さんの言う首は特に致命傷になる場所という意味だとはわかっているが、いまいち要領をえない話には変わりない。

「さて、それを踏まえた上でさっきの話に戻ろうか」
「え?」

 唐突な話題の変え方に思わず顔を彼へと向ける。臨也さんはモニターから視線を僕へと向けていた。

「そんな感覚が鋭敏な場所を触れ合わせる理由、なんてわざわざ言わないとわからないのかな、帝人君は」

 目を細め、まるで謳うように告げられた言葉に自然と眉間に皺が寄った。
 僕よりいくつも年上の彼は大人らしい駆け引きをして、それを楽しむ余裕もあるのかもしれないが、子供である僕はちゃんとわかりやすい形にしてほしい。明確な言葉が欲しいとねだる僕が悪いかのような言い分はどうかと思う。
 臨也さんはそんな不満をこめた視線を正確に受け止めたらしく、僕と目を合わせたまま小さく笑った。

「好きだからだよ。愛してる。言葉が欲しいなら惜しむ気はないからいくらでも言うさ。だけど」

 わざとらしくそこで言葉を切ると、彼はまた視線をモニターへと戻した。片手でマウスを操作しながら、もう片方の手でキーボードを叩く。

「君は俺の口から出たものなんか信じられるの?」
「…………」

 なるほど、言われてみれば確かにそうだ。他人を煙に巻くことを好むこの人が告げる愛の言葉ほど空虚な響きを持つものもそうない。人間観察が趣味な彼らしく、自身の第三者の意見を正確に把握しているらしい。この人のこういう、自分すらも観察対象の一つとしてどこか客観的に見ているような視点は嫌いじゃないし、なんとなくわかるような気もする。

「仮に、ですけど。あなたが本気でそう思っていたとして」
「仮じゃないけど。で?」
「相手の許可を得ずにするのはどうかと思います」

 僕がもの申したいのはそこだ。確かに臨也さんの言葉なんて最初から疑ってかかったほうがいいようなものだけど、それでもあんなことをするよりも先に思いを伝える必要があるし、僕の感情を確認すべきじゃないだろうか。あんなやり方はまるっきり僕の意思を無視してる。それはまあ、ああやってキスされたから僕は彼への思いを自覚したわけだから、先に臨也さんに好意を告げられたとしても今と同じように彼を思ったかどうかはわからないけど……でも何事にも順番というものが、と考える僕のほうをちらりと臨也さんは見た。

「許可、ねえ……。それって君の思いを確認してからしろって言いたいわけ?」
「そうですよ」
「でもそんなの必要ないだろ」

 君が俺のことを好きなんてわかりきったことなんだから。
 そう続いた言葉に一瞬、頭が真っ白になった。
 わかりきったことって、どういうことだろう。え、だって僕は先週、彼が訪問したことで自分の思いがわかったのに、何で本人じゃない彼が僕よりも先に知ってるんだ。おかしいじゃないか。それとも僕は無意識に、彼にそんな風に思わせるようなことをしていたんだろうかと考えたけど、そもそも僕は臨也さんとあまり会うことがない。せいぜい稀に街中ですれ違う程度だ。そのときも一言二言話すだけで、そんな中で自覚なくモーションをかけるような熟れたことを自分ができるはずもない。あとはチャットで話すくらいだけどそれだって今までと特に変わったことはしてないはずなのに。
 じわじわと羞恥で熱が上ってくる頭の中はひたすらクエスチョンマークが踊っている。それでも何か言わないと、と思う僕の耳にパソコンをシャットダウンしたときに流れるメロディが聞こえた。
 臨也さんは椅子から立ち上がるとまっすぐ僕の方に歩いてくる。早足でも、ことさらゆっくりでもないその足取りは普段通りのものだ。

「帝人君」

 ソファに座る僕の隣に彼は座ると、俯いている僕と目線を合わせるように顔を覗き込んできた。混乱している思考を整理しようとしているのに、柔らかい彼の微笑が邪魔をする。そういう顔を見せないでほしい。
 ふふ、と小さく笑った臨也さんはゆるりと両手を持ち上げ僕の首の後ろに回し、そのまま抱きついてくる。間近になった途端、わずかに彼の体臭がした。不快感がないどころか、むしろ妙な気分になるその香りで頭がくらりと揺れる。さっきから熱が上がりっぱなしだからそろそろ脳がオーバーヒートを起こすかもしれない。

「い、いざや、さん」

 名前を呼ぶ声がみっともなく震えたけど、こんなに他人と近づくことなんてあまり無いんだから仕方ない。彼を引きはがせばいいのか、それとも同じように抱き寄せればいいかわからず、結局僕は両手を膝の上から動かせない。
 臨也さんは僕の首筋に顔を埋めたまま、猫か何かのように頭をすり寄せた。柔らかな黒髪がくすぐったい。そういえばさっき、そう感じる場所は急所なんだって臨也さんは言っていたっけ。ちょうど話に出ていた首だから確かに理に適ってるなと思っていると、唐突に彼はすん、と鼻をひくつかせた。

「え、ちょ……な、何してるんですか!」

 匂いを嗅がれたことにぶわりと頭のてっぺんまで熱くなった。夏場よりはマシとは言え、汗をかいてるし、彼のように甘い香りのする香水なんてつけていない。どうやっても良い香りにはならないことはわかりきっているので叫ぶように文句をつけると、臨也さんは顔を上げないまま喉奥で笑った。

「嫌なら殴るなり蹴るなりしたら? 手も足も自由だろ?」

 それができるなら真っ先にやっている。できないことがわかっててそんなことを言うなんて、本当にこの人は意地が悪いと唇を噛んだ。ゆっくりと身体を離した臨也さんはそんな僕の顔を見るなり、人差し指で僕の口をそっと抑えた。

「そんな強く噛んだら血が出るよ」

 誰のせいだ。この人があんな言い方をするからと恨み言をこめて睨んでみても彼は笑ってまともに取り合ってくれない。この人が真摯に謝るところなんて想像ができないし、こんな風に鷹揚にいなすほうが彼らしいとは思うのだけど、どうも理不尽な対応をされてるような気がする。
 なんとか一矢報いる方法はないかと頭を捻っていると臨也さんが唐突に立ち上がり僕の手をとった。立つように促され、拒否する理由もないから腰をあげるとそのまま手を引かれる。

「でも本当に驚いたよ。もっと時間がかかると思っていたから、まともに準備ができてないんだけど……代用品でもいいよね?」

 彼は僕の手を離さずパソコンデスクの前で止まり、空いている手で机上に乗っていたチューブ型のパッケージを二つ手に取った。

「どっちがいい?」
「……え?」
「匂いがする方としない方。選んで?」

 彼の手にあるのは掌サイズのハンドクリームみたいだ。片方はピンク色で、蓋に何かきらきらとした石がくっついているし、愛らしい花の絵が描かれている。もう一方はシンプルなシルバーのパッケージに英字で印刷された紙が貼られていた。

「選んでって、」

 何で、と問う声に被せるように臨也さんは再度、どっち、と笑みを浮かべたまま尋ねてくる。自分の都合のいいように話を進める人だということはわかっているから、溜め息を一つついて銀色の方を選んだ。間違ってもあんな可愛らしい方は選べない。

「そう。俺も最中は余計な匂いが混ざらないほうが好きだから、こっちで良かった」

 言いながら臨也さんは僕が選ばなかったほうをデスクに戻し、手を引いたまま上に繋がる階段をのぼった。どこに行く気なんだろうと首を傾げつつも彼の腕を振りはらわなかったのは、一体何をしてくれるんだろうかという好奇心のせいだ。
 過ぎた好奇心は身を滅ぼす、というのは先人が残した偉大な言葉で、それを実感したのは階段を上がった先の、臨也さんが開けたドアの中を見たときだった。

「い、臨也さん、待って、ちょっと待って!」
「え?」

 腕を掴んでいる彼は僕がそう言うと思わなかった、と言わんばかりの顔で見てくるけど逆に僕が聞きたい。
 何でそんな当然みたいな顔をして僕を寝室に連れ込もうとしているのか。
 どうやらここは臨也さんの私室みたいで、下の事務所に使っている場所よりはよっぽど生活感があった。汚いとかそういうわけではなく、部屋の窓際に置かれたベッドの上掛けが中途半端にめくれているとか、いくつも置かれた枕が真ん中のものだけ凹んでたりとか、クローゼットの戸が開いて中にひっかけてあるコートが見えているとか。そういった生活していれば当然できる隙みたいなものがそこにはあった。そんな場所に自分をつれてきてくれることに喜んで走り出す心臓と、一足飛びどころか十足くらい飛んでいるような展開の早さに混乱する頭でおかしいじゃないですかと叫んだ。

「おかしいって何が」

 僕の腕から手を離す気がないらしい彼はこてりと首を傾げる。

「覚悟が決まったらおいでって言ったろ?」

 そういう意味の覚悟だったのかと今更気付いても遅い。
 すみませんそんな覚悟持ち合わせていません僕は鍵を返しにきただけでだから無理です今日はまだ無理ですお願い離してください。
 なんとか離してもらおうと一息で隠す余裕のない心情を説明すると臨也さんは涙袋を押し上げるように微笑んだ。

「へえ? 鍵ねぇ……鍵を返すだけなら、下のポストにいれるだけでも良かったと思うけど?」

 確かにそうだ。下に並んでいた郵便受けには折原ファイナンシャルプランナーの文字があったから、そこに放り込めば良かっただけの話だった。
 ここまで来たのは彼の真意が知りたかったからで、それは僕の満足のいく答えを得られたけどそれでもその直後にこんなことをするなんて早すぎる、と思う。他人と付き合ったことがないから他がどうなのかは知らないけど、でも思いを伝え合ってそのまますぐにと言われても僕の心の準備がまったくできていない。
 うろうろと視線を彷徨わせる。視界の端にちらちらと映るベッドは広くて、僕と臨也さんの二人が乗っても余裕がありそうだった。
 男同士なんておかしくないですか、なんて言葉を今更言ったところで空疎に響くだけだ。同性のカップルなんて、マイノリティーではあるが新宿二丁目に行けばいくらでも見つかるし、ネットでもちょっと探せば同性でする方法なんていくらでも出てくる。検索したのかとは聞かないでほしい。自分の思いを自覚した後、臨也さんから何の連絡もなくて暇だったのがいけなかった。
 さっき彼が手にとったハンドクリームはたぶん、潤滑剤代わりにでも使うつもりで持ってきたんだろうと思うと、臨也さんがどこまでしようとしているのかを想像してしまい頭に血が上る。目まで潤んできて、それを誤魔化すために瞬きを繰り返した。

「帝人君」

 臨也さんが僕の名前を呼ぶと耳元に唇を近づけてきた。吐息が耳たぶにあたり、勝手に身体が跳ねる。それを宥めるように臨也さんは腕を掴んでいた手を離し、そっと僕の背中を撫でた。

「大丈夫、ちゃんと気持ちよくしてあげる」

 気持ちよくって、それじゃあ臨也さんは同性でのやり方を知ってるのか、僕以外としたことがあるのかという問いは頭の中にはあった。でもそれをこのタイミングで口にするほど僕の心臓に毛は生えていない。

「だから全部俺に任せなよ」

 ね、と顔をあげた臨也さんの微笑は蠱惑的とか、そういった同性を形容するにはいささか問題のあるものだった。僕の目だけにそう映っているのか、他の誰が見てもそうだと判断されるのかわからない。でもできることなら彼のこんな顔は僕だけのものであってほしい。
 羞恥と未知のことへの怯えなのか期待なのか、曖昧な感情で震える身体を臨也さんが宥めるように抱きしめてくる。
 優しくしてくださいね、とか、初めてなんですといった言葉が脳裏をよぎったが、男が言っても様にならないものばかりだ。だから結局、彼の背中に腕を回し、指先に触れた彼の服を命綱だとでも言うようにしっかりと握りしめた。











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