ひどい人に惚れたものです 2012/10/04スパークにて無料配布続き









 甘やかすような言葉と共に伸ばされた手を拒めず、それは二度目三度目も、それ以降も同じだった。
 ネットで知識だけ詰め込んだ僕は自分がどちら側の、早い話が女性側になるのか男性側になるのかはベッドに押し倒されたときに何となく予想はついていた。まだ異性ともしたことがないのにと思ったのは一瞬だけで、でも初めてがちゃんと好きな相手ならそれでもいいじゃないかと納得できるくらいに僕は彼との行為を自分から受け入れた。少なくとも、心情だけは受け入れようとしていたんだ。だけど身体は気持ちについてこなかったらしい。
 ハンドクリームを潤滑剤代わりにして、本来受け入れられるようにはできていない場所を臨也さんは丁寧すぎるほどじっくりと拡げた。最初は小指からね、なんて言う彼の言葉に首を上下させ、たくさんある枕の一つを握りしめながら彼の指が小指から中指に代わり、そこに人差し指が添えられ、さらに薬指もと彼は挿入しようとしたけど、僕が手が真っ白になるほど強い力で枕を握りしめているのを見てやめてしまった。
 粘着質な音と共に指を引き抜かれたから慌てて彼の顔を見上げると、臨也さんは不満そうな顔一つせず僕の頬を優しく撫でた。無理しなくていいよ、という言葉にほっとしたのは確かだけと、それと同じくらい落胆もしていた。ネットではわりとあっさりできるような話もあったのに、僕の身体は持ち主に反抗する気らしい。

「しょうがないさ。帝人君、骨格が細いから骨盤も標準より小さいんじゃない?」

 無茶したら壊れそう、なんて言われたけど簡単に壊れるほど柔にはできていない。たぶん。
 いいからしてください、大丈夫ですと言ってはみたが臨也さんは鷹揚に笑うだけだった。面倒になったのかもしれない、と頭をもたげかけた不安を汲んだように臨也さんは僕の耳元に唇を寄せ、気持ちいいことだけって言っただろ、と囁いた。

「まあ、この状態はちょっと辛いけどね。……だから、ね?」

 そう言って僕の両手を枕から引きはがし、熱を孕んだ彼の下肢へと手を引いた。僕のと彼のとをひとまとめにするようにして擦り立てられ、自分の手以外の感触を知らない僕はあっさりと吐精し、臨也さんも少し遅れて精液を溢れさせた。
 最初がそんな感じで始まったせいか、それからも臨也さんは特に僕に無理をさせようとはしない。
 彼はひどく僕の発する空気に敏感だった。人間観察が趣味と豪語しているから人心掌握には長けているのだろうと思うけど、それにしたってどうかと思うくらい気配を読むのが上手い。具体的に言うと、僕がこう、例えばキスがしたいなとか、それより先のことがしたいなと思うとあっさりとそうしてくれるのだ。恥ずかしさが先にたって僕は自分から彼を誘うことはできないし、それとなくそういう雰囲気にする、なんて高度テクニックはもちろん持ち合わせていない。だから本当に、臨也さんがちょっとどうかというくらいに先回りをして僕の要望を叶えてくれる。これが経験値の差というものなんだろう。
 もし臨也さんが、彼の目から見たらおそらく露骨にしたがってるようにしか見えない僕の態度を嘲笑うような素振りを見せたらきっと僕は立ち直れなかった。幸いなことに一度もそんなことはない。あの、折原臨也が、だ。僕を騙そうとしているのかと疑いたくなるが、そんなことをしてまで僕と触れ合うメリットなんて彼にはない。
 つまり、臨也さんは恋人である僕に優しくしようとしてくれているんだと思う。恋愛に不慣れな僕を上手にエスコートしてくれているわけだ。巧みな人に任せていたほうが物事はスムーズに進むもので、そんなことはわかっているから彼にそのへんの不満をぶつけたことはない。
 ないが、少しばかり気になって聞いてみた。そんなに僕はわかりやすい態度をしているのかと。

「わかりやすい? 帝人君が?」

 臨也さんは僕の言葉に驚いた、と言わんばかりに目を瞬かせながらもたれていた土壁から身体を離した。たぶん彼の黒いコートの背中は少し白くなってる。
 夕飯を食べたあとに部屋でぼーっとネサフをしていたら、臨也さんから突然メールが届いた。今から行ってもいい? という内容のそれにどうしてこの人は夜に動きたがるのかと疑問に思ったものだ。まあ単純に、夜のほうが天敵と会う確立が低くなるからだろうけど。
 最初の頃はこんな連絡もなしに来ていたんだから、こうやってメールをくれるようになっただけマシかと思いつつ、いいですよ、と返信を打った途端。僕の家のドアの前から聞き覚えのある着信音が響いたんだから胡乱な顔にもなる。家の前まで来て行ってもいいかも何もないだろう。もし断ったとしても彼のことだ、押し入ってきたに違いない。……まあ、ぼくが断るはずがないと思ってるんだろう(そしてそれは事実だ)。
 臨也さんは僕の家に来ても機嫌良さそうに笑っているだけで、特に何かする様子はなかった。帝人君の好きにしててよ、と言いながら畳の上に座り壁にもたれて、それだけだ。好きにしてていいよと言ったって、恋人が側にいるのにと思う僕の思考は特におかしくないと思う。かと言って何か気の利いた会話の糸口があるわけでもなく、黙って寄り添えばいいのかもしれないがそれは羞恥心が邪魔をしてできなかった。結局微妙な距離を保ったまま、背後の臨也さんの気配を気にしつつ当たり障りのなさそうなニュースサイトを見ながら、ふと思いついた疑問を口にしたわけだけど、何でこの人はこんなに驚いているんだろう。

「それ本気で言ってるの? それとも誰かに言われた?」
「誰かって、いえ、別に」

 考えてみると今まで思ったことが顔に出てる、なんて指摘はされたことがないし、逆にポーカーフェイスが上手いとか言われたこともない。だからこそ臨也さんが易々と僕の願いを叶えられることが気になっていた。

「じゃあ何で」

 何でってそんなの、臨也さんが僕のことを何でもわかってるみたいな顔をしてみせるから。
 ぱっと思いついた返しはなんだかふてているようなものだった。彼が苦笑に近い微笑を浮かべつつもそんな僕の文句も受け止めてくれるだろう、という打算が見え隠れする己の言い分に思わず言葉に詰まる。いや、この言い方はどうなんだろう。見目の可愛らしい女の子がしたらそれは中々様になると思うんだけど、言うのは残念ながら僕だ。
 もごもごと口ごもった僕を見ながらゆっくりと臨也さんは再度壁に背を預け、腹の上で両手を組んだ。じっと見つめる赤い目は何かを見定めるような色をしている。

「質問に答えるけど、そんなことはないよ。まあ内心をまったく悟らせない、っていうほどじゃないけど」
「ほどじゃないけど、臨也さんには手に取るようにわかるってことですか」
「やけに棘を感じる言い方だねぇ」

 そんなつもりはなかったが確かにそう聞こえるかもしれない。

「平凡な高校生男子らしいわかりやすさはあるってことさ。例えば、クラスメイトの女子と噂されたら赤くなったりとか、体育の授業がマラソンだったら嫌な顔をするだろ? それくらいのことならむしろ表情に出たほうが好感が持てると思うけど」
「…………」

 思わず眉間を狭めてしまったのは僕の問いかけていることから微妙にずれた答えが返ってきているからだ。組んだ指の先を手持ちぶさたのように動かす臨也さんはたぶん、僕が言いたいことを理解している。ただ試しているんだろう。どこまで僕が彼に踏み込んだ質問をしてくるのかということを。
 他人であればああそうですか、とこれ以上は追求しない。だけど僕と臨也さんは恋人で、別れる予定なんて今のところはない。それならお互いの理解を深めようと思うのは当然のことだ。

「……臨也さんは」

 言葉を選びながら口を開いた僕に彼はなあに、と言うように小首を傾げた。その仕草がどこか可愛く見えるのがあざとい。

「臨也さんはどうして……僕の気持ちがわかるんですか?」

 選んだところであまりまともなものが出てこず、そんな自分に胸中でため息を吐く。少しくらいは彼に見合うようなスマートな対応をできないものだろうか。 
 どうして口にしていない内心がわかるのか、なんて不明瞭な質問にもほどがある。こんな聞き方をしたらまた、愛じゃない? なんて頭の痛くなるような答えが返ってきそうだと思う僕の耳に臨也さんは珍妙なことを言い出した。

「君の気持ちはわからないさ。でも、そういうことをしたいんだなっていうのはわかる。それは帝人君が顔や態度に出してるからじゃないよ。むしろ、もっと誘ってくれればいいのにって思ってるくらいだし」
「じゃあ何で」

 彼は僕の言葉ににこりと笑った。

「俺が吸血鬼だから」
「…………………………………………………………へ?」

 たっぷりとした沈黙のあとに僕の口から出た間抜けな声に臨也さんは噴き出すこともなく、笑みを浮かべている。そのいつも通りと言わんばかりの表情からはこれが性質の悪い冗談なのか違うのまったく読めない。
 ジョークだとしたら僕の質問をはぐらかしたいのだろうし、本気なんだとしたら、臨也さん、中二病がそこまで進行しているなら病院に行ったほうが。

「何か失礼なこと考えてるみたいだけど」

 ここに鏡はないが、自分が彼の頭を心配すればいいのか憐れめばいいのか迷っているような顔をしている自覚はあったからその言葉には苦笑を返した。

「別にさあ、こう言うのがかっこいいからとかそういう思春期特有のあれじゃないんだけど……うーん」

 悩むように自分の唇に人差し指の背を押しつけた臨也さんは、見せたほうが早いかと呟くと自身の黒コートのポケットから何かを取りだした。
 それが何かを確認するために四つん這いで彼に近づく。僕に見せつけるように、臨也さんは手の中のものを振った。白い掌にすっぽりとおさまるようなサイズのそれはどうやらコンタクトケースのようだ。僕は視力は悪いほうではないから縁がないけど、クラスメイトが持っているのを見たことがある。
 それが一体何なんだろうと首を捻る僕の目の前で臨也さんはケースの蓋を開け、徐に自分の眼球へと右手をやった。指先で何か、いやまあコンタクトなんだろうけど、それをつまむ仕草に背筋が怖気だつ。自分の眼球が触られているわけじゃないが敏感な粘膜に直接指が触れているのを見るのはいい気分がしない。こういった仕草を見る度に、絶対自分はコンタクトにはしないと決意を固めてしまう。
 ゆっくりと顔から離した指先には半透明の、小さな円形の物体が乗っていた。光彩にあたる部分が赤色で、何度となく至近距離で見ていた彼の目と同じ色。カラーコンタクトをつけていたなんて知らなかった。

「帝人君」

 呼ばれて顔をあげる。偽物の色を外した彼の片目は、一般的な日本人と同じ黒色だと何の疑いもせずそう思っていた。

「……え?」

 呆けたような声が口から零れたのは意図してのことじゃない。自分の目の前の光景が信じられないからだ。
 安っぽい蛍光灯の下、ときおり瞬きを繰り返す臨也さんの裸眼の色が何か、おかしい。僕の目がおかしくなったんじゃなければ金色に見える。
 外国の人にはときどき、光の加減で金色のように見える人がいるらしいけど、臨也さんのはそうじゃない。だって僕が顔の傾けてもやっぱり彼の眼の色は金色としか表現できないものだ。
 黒髪で、日本人らしい少し黄みがかった肌なのにそこだけが異彩を放っていた。

「先に言っておくけど、これ。カラーコンタクトじゃないから」

 二つもコンタクトをつけていたら眼病になるしねぇ、とのんびりとした口調で言う臨也さんに観察するように見ている僕を咎める様子はない。それに力を得て、より側で見ようと顔を近づけた。

「あの」
「何?」
「触ってみてもいいですか?」
「……いやダメだけど。そんなの目が痛いじゃないか」

 やっぱりそうか。義眼なのかな、と思ったけど僕の動きを追うように眼球も動いてるからそうじゃないんだろう。
 人間の目の色素というのは、ブルーとブラウンとイエロー、になるらしい。日本人の目だって黒と言われるけど実際は真っ黒ではなく濃いブラウンになる。三色をどう混ぜ合わせたところで金色にはならないし、イエローを金だと言うのは無理があるだろう。
 僕が彼の目を金だ、と判断した理由は光の反射のせいだった。まるで猫のように彼の目は室内のささやかな明かりを移し返している。

「何で、金色なんですか?」

 思えば間抜けな質問だ。でもこのときの僕は、まるできれいな宝石のような彼の目に夢中で自分の言った言葉を深く考えていなかった。

「何でって、吸血鬼だからねぇ。……生物学的に説明しろって言うのなら、猫と同じ原理だと思ってもらっていいよ。暗い場所でも歩けるように、人間とは目の構造がちょっとだけ違うのさ」

 グアニンって知ってる? と聞かれて彼の目から視線を外さないまま首を左右に振った。だよねえ、と呟いたから臨也さんもその反応が返ってくることはわかっていたらしい。

「ま、知らなくてもいいけどね。でもこれで少しくらいは信じてくれるんじゃない? 俺が人じゃないってことをさ」
「…………」
「帝人君?」

 耳触りのいい声が僕を呼ぶけど金色の眼から視線を逸らせない。そっと彼の瞼に手をやるとぱちりと目を閉じられてしまった。えぐりとられると思ったんだろうか。さすがにそこまでえげつないことなんて彼にできるわけがないのに。

「聞いていいですか?」

 その閉ざされた右目を痛みを与えない程度の力でゆるゆると撫でながら尋ねると、深く息を吐いた後に臨也さんは、何を、と返してきた。

「血を飲むんですか?」
「……飲むよ。まあ、食料というよりは嗜好品に近いけど」
「じゃあ飲まなくても死にはしないと」
「それもちょっと違うかな。飲まず食わずでも死ぬことはないし、血がなくても生きてはいける。まあ、身体が弱って今の姿が維持できなくなるけどさ」

 まるで今見ている彼の姿が偽りのものかのような言い分だ。だとしたら、本物の彼はどんな姿なんだろう。やっぱりコウモリなのかな。ふと脳裏に夕方の空をひらひらと飛び回る姿が浮かんだ。ちょっと可愛いかもしれない。

「食べ物で代用はできないんですか?」
「できないこともない、というより、普段はそっちが主体だよ。ただ栄養素だけの味気のない食事だけじゃなくたまには身体に悪いと思うような、味の濃いものを食べたくなるだろ? それと似たようなものさ。反吐が出そうなくらい退屈で愉快な終わりのない人生を楽しむために吸血行為は必要なんだよ」
「でも、血を流させるってことは傷害ですよね」
「君が想像しているのは大方、映画の一幕じゃない? 淑女の寝室に入り込んで首元にかじりつくやつ」

 吸血鬼、と聞いたらだいたいの人間がそういうシーンを思い浮かべるんじゃないだろうか。その場合の吸血鬼が身につけているのは当然黒いマントで、髪は何故かオールバックで、大きく開いた口元には犬歯と言うには鋭すぎる牙があって。
 それと比べると四畳半の畳に座っている彼は随分、趣が異なる。共通点はせいぜい全身を覆う黒いコートくらいだろうか。だけどこれも今日はたまたま丈の長いものだからそう見えるだけだ。

「今どきそんなことをするようなやつはいないよ。血液なんて、ちょっとお金を払えば輸血用のものがいくらでも手に入る。俺には医者の知り合いがいるからね。闇医者だけど」
「新羅さんですか?」
「あいつ以外にも伝手はあるさ」

 それはそうか。新宿の情報屋として名を馳せているのだから、そういう裏世界の知り合いなんていくらでもいるんだろう。
 ふんふんと頷きながら頭に浮かぶ疑問が次々と口から出てくる。

「ニンニクがだめとか、木の杭で心臓を打たれると死ぬとか、銀の弾丸が弱点って聞きますけど本当ですか?」
「味はさておき、個人的に匂いのきつい食べ物ってあんまり好きじゃないんだよ。パクチーとかさ。残りの二つだけど、普通に考えてごらんよ。心臓を貫かれたり銃で打たれて生きている人間の生存確率はどれくらいか」
「じゃあ、日中は出歩けないとか」
「強い日差しは苦手だよ。目が痛くなるし、日焼けすると肌が赤くなるんだよね」
「灰には」
「なるわけないだろ。漫画や映画の見過ぎじゃない?」

 見過ぎって言われても、そもそも吸血鬼なんてそういった世界にしか存在しない、フィクションの世界の住人のはずだ。それを小馬鹿にするような口調で指摘されても困るし、臨也さんのその日差しが苦手って、単なる紫外線アレルギーなんじゃないだろうか。

「……それじゃあ人と何が違うんですか?」

 そう問いかけると臨也さんは耐えきれないとばかりに噴きだした。一体何が楽しいのかわからないけど、彼は瞼に触れていた僕の手を掴みそこからどけさせる。ぱちりと開いた金色の目が愉快そうに僕の顔を見つめた。

「そんな期待外れだ、みたいな顔をしないでくれる? さっきも言ったけど、寿命が長い。人から見たら不老不死に見えるんじゃないかな。それと回復力もまぁまぁ高いよ。どっかの化け物ほどじゃないけどね」

 化け物、と言った瞬間に臨也さんは柳眉を潜めた。吸血鬼に化け物扱いされる、バーテン服姿の彼を思い浮かべる。確かにどんな言葉もねじ伏せるような彼の腕力や、拳銃で撃たれても自分で歩いて医者に行けるのだからある意味人の規格からは外れているとも言える。それこそ、目の前の彼よりよっぽど『らしい』気がした。静雄さんが狼男だとか、そういう風に言われるほうがまだ説得力があるんじゃないのかな。

「あとは……そうだな」

 そんな僕の考えをもし読み取られていたら臨也さんは苦虫をかみつぶしたような顔をしそうだけど、彼は特に気分を害したようには見えない。ただ楽しそうに僕の疑問に答えてくれていた。

「……鼻が利くよ」
「鼻……ですか?」

 そういえばさっき、匂いのきつい食べ物は苦手とか言っていたっけ。でもそれのどこが吸血鬼としての特典なのかわからず、眉を顰めたまま首を傾げると臨也さんは、すう、と唇に弧を描かせた。あまりよくない笑い方をしてる気がする。それとなく距離をとろうとするよりも先に腕を掴まれた。

「便宜上、匂いって言うけど厳密にはフェロモンみたいなものだと思うんだよね」
「フェロモン、ですか?」
「そう。生物の体内で生成され、同種の個体に影響を与える物質。寿命の違いや多少人体構造に差はあっても、俺と君たち人は近い生き物なのさ。フェロモンが利くからね。まあ、あるいは」

 わざとらしくそこで言葉を切ると彼は露悪的に笑みを深めてみせた。

「捕食者と被捕食者の関係だからわかるのかもしれない」

 つまり、吸血鬼と被害者だと言いたいのだろうか。でもそれがフェロモンとどう関係があるのかいまいちわからないでいると、まるで教師のような言いぶりで臨也さんは言葉を続けた。

「血の味なんて見ただけではわからないものだけど、その匂いである程度予測はつくんだよ」
「無差別に襲う必要はない、というわけですか」

 確かに、かじってみないと舌に合うかわからないという理屈が通ってしまえばもっと吸血鬼のことは世に広まってるに違いない。数が少なそうだけど襲われれば噂にはなるし、と考えてから気付いたことをそのまま口にした。

「よく吸血鬼に襲われて、そのままその人も吸血鬼になるなんてことがありますけど、それはどうなんですか?」
「ちょっと血を吸うだけじゃならないかな。俺の場合は遺伝だし」
「……遺伝?」
「そう。家族みんなそうなんだよ。だから九瑠璃と舞流もそう」

 さらりと出てきた二人の名前は僕もよく知っている。折原臨也の妹だ、というのは来良学園に入学したときから噂になっていた。でも学年が違うから話したこともなかったんだけど、最近街で会うと声をかけられる。それが臨也さんと付き合うようになってからだったから、もしかして彼が何か言ったんだろうかと考えたこともあった。まあ、普通家族に同性と付き合ってることなんて言わないよね、と結論をつけてそのことは臨也さんに追求しないままだ。
 それにしても遺伝か。なんだか思っていたより吸血鬼ってドラマティックな生き物ではないのかもしれない。

「で?」

 人目を忍んで生きているイメージがあっただけにギャップが激しいなと思っていると、唐突に臨也さんがそう聞いてきた。で? って、何がだろうか。

「他に質問は?」

 くすくすと笑う彼の顔はとても楽しそうで、今更になって矢継ぎ早に質問していたことが恥ずかしくなる。いやでも、目の前の人間が吸血鬼だ、なんて言われたら誰だってこうなるんじゃないだろうか。だってこんな非日常中々ないと……は言えないか。首無しライダーがいるくらいだ、吸血鬼だっていてもおかしくない。とは言え、それが自分の恋人だなんてやっぱり容易に体験するようなことじゃないか。

「ええと……」
「なあに?」

 臨也さんが掴んでいた僕の腕を引き寄せてくるからそれに逆らわず、あぐらをかいて座っていた彼の脚を膝立ちの状態でまたぐ。彼を見下ろす体勢はあまりないから珍しい。
 どこか甘やかすような、甘えるような響きを持った声に最後の疑問を投げかけた。

「何で吸血鬼であることを、今更」

 隠そうと思えば彼ならいくらでも秘密にできたはずだ。何もかも誠実に、恋人に打ち明ける必要なんてない。そもそも同性で付き合っている時点で世間一般の恋人より別れる確率は高いのだし、自分の弱点になるようなことを僕にさらけ出してしまっていいのかと思って問いかけると臨也さんはするりと手を僕の腰の後ろに回した。その体勢のまま上目遣いで見上げてくる。

「そろそろ限界かなって思って」
「何がですか?」

 まさか僕と付き合うのが、何て言う気じゃないだろうか。だとしたら、別れ話代わりにこんな話をと悪い想像に傾く僕に臨也さんはまるで花が綻ぶような笑みを浮かべてみせた。

「帝人君、すっごく美味しそうな匂いまき散らしてるっていう自覚はある?」
「…………は、あ?」
 匂い? 美味しそうな?

 腕を持ち上げて鼻をひくつかせてみたがまったくわからない。そんな僕に臨也さんは笑いながら、吸血鬼にしかわからないと言った。そういうものらしい。

「ええと……つまり、臨也さんは僕の血を飲んでみたい、ということですか?」

 臨也さんは何も言わなかった。ただ普通の人とは違う色の目を細めただけだ。きっとここで嫌です、と言えば彼は引いてくれるんだろう。身体を繋げるときに、どうかと思うくらい気を遣ってくれたときと同じように僕の身体を大事にしてくれる。
 それなら僕のとる選択は一つしかない。

「どうしたらいいですか?」
「……ん?」
「どこから吸うものなんでしょうか。首からってよく見ますけど、あれ痕が目立ちそうだからできれば遠慮したいです」

 ただ単純に傷をつけるだけなら指先に包丁かカッターで切ってしまうのが手っ取り早いし、誤魔化すのも簡単そうだがタイピングをするときに痛いのは困る。脚も、普段は丈の長いズボンばかりだけど、体育のときはハーフパンツになることもあるし、着替えのときに指摘されたらどう答えたらいいのか困ってしまいそうだ。あとは腹や背中があるけど、あまり肉が乗ってなくて固いから血を吸い出しにくいかもしれない。かと言って柔らかい部位として真っ先に思い浮かぶ臀部なんか以ての外だ。彼にもう見られていないところなんて思いつかないけど、それでもそんな場所に口をつけられたりしたら憤死するかもしれない。

「……嫌じゃないの?」

 どこが一番僕にとっても彼にとっても都合がいいかを考えていると、臨也さんは両目を瞬かせながらそう問うてきたからすぐに、いえ別に、と答える。
 決して虚勢で言ったわけじゃないし、適当に答えたんじゃもちろんない。もしこれが臨也さん以外だったら全力でお断りしていた。でも他でも無い恋人の頼みだ。それも、きっと他の人間には簡単に頼めないような。何より彼は僕で妥協するのではなく、僕のものが飲みたいと言っている。本当に美味しいかどうかわからないが欲しがっているならいくらでも飲めばいい。……いくらでもは困るか。僕が死なない程度、に訂正しておこう。
「どこがいいですかね……あ、そうだ。このあたりはどうでしょうか?」
 何となく腕を眺めていて、ふと二の腕はどうかと気付いた。ボディクリームなんかのパッチテストはここですると言うし、内側なら痕をつけられても目立たないし、他の部位より柔らかいはずだ。

「臨也さん?」

 右手の親指と人差し指と中指で左腕のそこを揉みながら、黙ったまま俯いて返事をくれない彼の名前を呼ぶ。もしかしてここじゃダメなんだろうか。やっぱり首じゃないと困るのかもしれない。そういえば、前に首は血管がどうだ、とかいう話をしていたっけ。吸血鬼には首筋からしか血を吸っちゃいけない決まりでもあるのかもしれない。
 そんなことを考えていたが、ゆるゆると顔をあげた彼が口にしたはたった一言だった。

「いいの?」

 主語も目的語もないその言葉の意味なんて聞く必要はない。僕はできるだけ優しく、なおかつかっこよく見えるように微笑みを浮かべながらもちろんですと返した。遠慮する必要はないから、どうぞがぶっといってほしい。
 臨也さんは僕の腰を引き寄せ、日焼けをしていない生白い二の腕の内側をじっと見つめた後に口を開いた。あ、確かに犬歯あたりの歯が尖ってる、でもキスをしたときにはわからなかったから、吸血のときだけああなるのかもしれないと思いながら、その牙がゆっくりと肉に食い込み、皮膚を突き破る瞬間を見守った。

「……っ」

 少し痛い。でもこれくらい耐えられるものだからと二の腕を動かさないようにしていると、臨也さんの牙が抜ける。
 気にせず噛んでいいんですよ、これくらい大丈夫ですからと口走るよりも先に、彼の赤い舌が唇から覗いた。牙の痕が残るそこを癒やすように舐められる。

「あ……」

 思わず妙な声が出そうになって、慌てて彼が舌を寄せていない方の手で口を抑えた。臨也さんにしてみればただ食事をしているだけなんだから、こんなものを出されるほうが困るだろう。
 口元を抑えたまま彼の様子をうかがうと、無心に傷跡から溢れる血を舐めていた。ときおり、ぐ、と二の腕を押さえられると傷口から零れた血の玉が一瞬できて、それが流れるよりも先に彼の唇が這う。
 どのくらいの間そうしていたのかわからないけど、たぶんそんな長い時間じゃないはずだ。ただ、膝立ちの体勢がちょっと辛いなと思い始めたころに臨也さんは自分が噛んだところを音をたてて吸い上げた。彼が口を離すと、そこには紅い痕が見てとれた。キスマークを付けられたのは別に初めてじゃない。だけどその痕の中心に空いている小さな穴が、今までつけられたものよりも一際存在を主張する要因のような気がした。

「は、あ……」
「 思わずといった具合に漏れた彼の吐息は熱っぽくて、そうっと見上げてくる視線はいつもよりたくさん水分を含んで、とろりと溶けてしまいそうに見える。
 その目にどんな言葉を返せばいいのかわからない。ただ何もしないままでいるのも嫌で、今まで口を覆っていた手でなんとなく彼の頭を撫でた。柔らかい黒髪が指に心地良い。
 その僕の態度に彼は不満そうな顔でも見せるかと思いきやそうでもなく、むしろもっとしてほしいとばかりにぽすん、と僕の胸に頭をもたれかけてきた。途端にふわりと、また彼の香水の馥郁たる香りが鼻を満たす。いつも同じ匂いだからたぶんこれは臨也さんが気に入って使っているんだろう。何て名前のものなんだろうか、聞いたら教えてくれるかな、と口を開きかけた途端、ぽつりと彼が呟いた。

「美味しいし、気持ちいいし、なんかもう……」

 なんかもう、何なんだろう。
 うっとりとした声に見合ったように語尾が溶けて消えてしまったからよくわからないけど、さすがに否定語は続かないと思いたい。
 もっと撫でてくれと言わんばかりにゆるく頭をすり寄せる彼の髪を繰り返し撫でる。ふわりと胸のあたりが暖かくなった。香水の名前はまた今度でいいや。今はこの、幸せそうに目を閉じる彼の表情を存分に堪能したほうがずっと有意義だ。









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