臨也さんとの付き合いはチャット友達、という意味だけなら決して短くはないと思う。地元にいたときからだから、もう二年以上になるだろうか。知識量の多さは今でも尊敬しているし、オンライン上であのキャラクターを演じている手腕も素直にすごいと思う。臨也さんと甘楽さんがイコールで繋がる前からわざとらしいまでに高いテンションの彼女(実際は彼だったわけだけど)は頭がいいのだろうなとは思っていた。楽しそうに街の噂話を出してきていたけど、あれはあの口調とノリだからこそ許せるものがある。あくまでゴシップが好きなだけ、という主張を前面に押し出したあれはやっぱり色々計算されてやっていたんだろう。
膝の上に乗せたノートパソコンを眺めつつ、グラスに入っていたアイスコーヒーを一息で飲み干すと隣に座っていた臨也さんがひょい、とそのグラスを僕の手から取った。
「お代わりいる?」
「……いただきます」
鼻歌でも歌い出しそうな様子でベッドから立ち上がりキッチンへと向かう臨也さんの背中を見つめながらそっとため息を吐く。
彼とノートパソコンを二人で見たりするような関係になったのは季節を一つほど遡ったころだ。いや電子端末を一緒に見るくらいなら別に、知り合いでも仕事の取引相手でもままあることなんだろうけど今僕らがいる場所は臨也さんの隠れ家の一つで、情報屋なんていう彼曰く『敵が多い』仕事をしている人にとってはあまり不特定多数の人間をいれたくないであろうプライベート空間になる。そんな場所に、それも寝具の上に当然のように座っているのだから僕らの関係性を表す言葉なんてそう多くない。
身体だけを繋げているのならセックスフレンドとか、そういう漫画なんかでよく聞く言葉になるし、そこに金銭が絡めば援助交際なんていうニュースで報道される言葉に変質する。一応僕と臨也さんはそのどれにも当てはまらず、いわゆる恋人同士なんていうむずがゆくなるような言葉で表される間柄だ。どうして僕と彼がそうなったのか。そんなの僕が聞きたい。気がついたらこうなっていた、というのが僕の正直な感想だ。それはまぁ、告白したりされたりだののドラマがまったくなかったとは言わないけどそれも『付き合ってみる?』という軽い言葉だっただけだ。それにはぁ、まぁ、はい、と曖昧な言葉で頷いたのは好奇心が八割を占めていた。この人は友人や知り合いではなく恋人という人間に何を求めるんだろうかという興味本位で首肯した結果がこれだ。残りの二割については、告白『したり』されたりという言葉が全てを物語っているのだから言及しないでもらいたい。
そんな何とも温度の低そうな感情で始まった僕と臨也さんの恋人生活というのは温度に見合った糖度の低さだった。たぶん身体を繋げていなければただの友人……と言っていいのかわからないけど、そういったものにしかならないと思う。二人で旅行に行くことなんてないし(僕も臨也さんもあまりこの街を離れるのは好きじゃない)、デートに行くとしてもせいぜい映画を見て食事をするくらいで(ショッピングとか、そういった類はお互いの財布事情があまりに違いすぎてどうも価値観が合わない)、そうなってくるとどちらかの家でのんびり過ごすことにはなるのだけど、僕の狭い四畳半に臨也さんを招くことはあまりない。招待しなくてもふらっと立ち寄ることはあるけどさ。
そうなってくると自然と互いに時間を合わせて会う約束をするとなると臨也さんの所に僕が赴くことが多くなり、馬鹿みたいに大きなソファに二人で座ってレンタルしてきたDVDを見たりして、る内になんとなくそんな空気になってそのまま致すことが大半だ。考えてみれば僕と臨也さんってセックス以外あまり二人で一緒に何かすることってないのかもしれない。
別段それに不満を覚えてはいないし、いわゆる大人のお付き合いってそんなもんなんだろうと思う。仮に彼が甲斐甲斐しく僕を女の子のように扱ったとしても気持ち悪いだけだし、彼女なんてちゃんとできたことのない僕がまともな交際なんて語れるわけもない。こんなことがしたいなぁっていう夢はあるけどその夢はあくまで愛らしい彼女がもしできたら、という空想によって産まれていた夢だ。
臨也さんの外見はそれはもう整いすぎてるくらい綺麗だし、脚だって長いし、睫毛もマッチ棒何本乗るかなと純粋な興味は惹かれはする。だけど彼は公園でピクニックだとかクリスマスに手作りマフラーをくれたりなんてことはまずしてくれないし、されても嬉しくない。そうなると口にしたら爆笑されて終わりそうな僕の夢なんてものは脇に置いておくことになる。夢は夢なのだからむしろ叶わないほうが幸せなのかもしれないし。
とは言え、年齢も性別も関係なく恋人同士なら記念日くらいは一緒にお祝いしてもいいんじゃないだろうか、とは思っている。実際臨也さんは僕の誕生日には色々と……そう、色々と盛大に祝ってくれたおかげでいろんな意味で心に残る誕生日だった。あの思い出すだけで叫びながら頭をかきむしりたくなるような甘ったるい日は一生忘れられない気がする。
なんだかんだで初めてできた恋人との初めての誕生日だったわけだし、それを踏まえても臨也さんは理想的な誕生祝いをしてくれたんだと思う。それに僕の羞恥心が耐えられるかどうかを彼が加味していなかったのはたぶん、いや間違いなくわざとだろうと思うけど。祝ってもらう僕本人の意思云々より自分がどれだけ楽しめるかを優先しているのが臨也さんらしい。
自分の誕生日が不満だったのか、と聞かれるとそれの答えにはちょっと迷いながらも首を左右に振ることはできる。だから僕も臨也さんの誕生日は盛大に祝うつもりだった。精一杯に祝う僕の姿をいかにも高校生らしい祝い方だねぇ、悪くないけど、なんて嫌味なのか照れ隠し(自分で言うのもなんだけど、臨也さんにこの言葉を言える自分がちょっとすごいと思う)なのか微妙な言葉を口にする恋人の姿を思い浮かべながら準備をひっそりと進めていた、はずが。臨也さんは五月一日に突然電話してきてこう言った。
「しばらく仕事で忙しくなるから、俺から連絡するまでメールも電話もしないで」
え、何だそれ、しないでってそれっていつまでですか、あなたの誕生日に備えて僕だって色々と、と頭に浮かんだ言葉は上手く形にならず結局出てきたのはわかりましたという優等生な返事だった。
あのとき食い下がっていればなぁ、なんてことを虚空を眺めながら現実逃避をかねて思う僕の目の前ににゅ、とグラスが差し出された。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます……」
中身はアイスコーヒーに牛乳がたっぷり入ったものだった。二杯目だから味を変えてくれたのかもしれない。こういうさりげなさは人間観察の賜なんだろうかと思いながら口に含む。さっきのは甘ったるかったけど、今度のはほどよい甘さだった。
「ログは全部見れた?」
ポスン、と音を立ててさっきと同じ場所に臨也さんが座る。友人同士だとしたら近すぎると文句が言えるくらいに、べったりとくっつくようなその仕草は普段の彼ならまずしない距離感だ。
臨也さんは今までにも何人もの人と付き合ったことがあるんだろうと思う。触れるときだって雰囲気を意識して、僕のほうがいいからさっさと触ってほしいだとか、もっと側にきてほしいと言い出す直前でその通りにしてくる。読心術でも心得ているんじゃないかと何度思ったことか。臨也さんに言わせると、恋愛経験の少ない僕は特にそういったときにどうしてほしいのかわかりやすいからしているだけだそうだけど。
つまり何が言いたいのかと言うと、臨也さんは相手がどうしてほしいのかものすごくよくわかる人なんだ。その彼が今現在、僕の色々と渦巻いているものを無視してこの近さで座っている理由として思い当たることは多くない。というより、原因は一つだけだ。
「見まし、た」
そう、と言うと臨也さんは僕の膝の上のノートパソコンを閉じて、ベッドのすぐ近くにあるローテーブルの上に置いた。そのまま座っている彼自身の膝の上に肘を乗せにこにこという擬音でもつきそうな表情で僕の顔を見ている。それに目を合わせられないのは僕に罪悪感があるからだ。
臨也さんが見せてくれたログは彼の誕生日、つまり甘楽さんの誕生日当日のチャットのログだった。臨也さんとこんな関係になる前はてっきりあの誕生日も『甘楽』用に用意したものなんだと思っていたから本当に彼の産まれた日だったと聞いたときは少し驚いた。驚きつつも、去年も一昨年も彼に祝いの言葉を贈ることはできていたのだという事実に少しだけ胸を躍らせていた。今はそんな和やかな思い出に浸ってる場合じゃ無いが。
チャットでは甘楽さんは盛大にバキュラさんに苛まれているようだったけどセットンさんも罪歌さんもちゃんとお祝いしてたじゃないですか、とか。
そもそも臨也さんの方から連絡とるなって言うから僕は顔を出さないようにしたんですよ、とか。
言い訳というか、正当な主張はいくらでも頭の中をぐるぐると巡る。だけどそれを口にしたところで臨也さんは笑みを浮かべたまま、友人に祝ってもらうのと恋人に祝ってもらうのだったら重さは違うよねぇ、とか、誕生日くらいは別だとは思わない? せめてメールするなりチャットで言葉をかけるくらいできたと思うんだけどと言われると反論ができない。
四日は何となく、臨也さんは仕事でいないだろうしと別のチャットルームに顔を出しに行っていた。情報網は増やしておくに越したことはない。だけどもしいつものようにチャットに顔を出していたら、その場で電話して祝いの言葉を告げることくらいはできただろうに。
そろそろと機嫌を伺うように臨也さんへ顔を向けるとそんな僕の態度に臨也さんは目を細めた。
「あの……」
「何?」
「……すみません」
あなたが仕事だって言うからこっちだって気を遣ったのに、ということを声を大にして言いたい気持ちがなかったわけじゃない。それを主張し続けることだってできた。しなかったのは臨也さんがわかりやすく拗ねた素振りを見せているからだ。わざわざログまで用意して僕に祝ってほしかったのだと主張する彼の行動は理不尽なものであるのにどこか僕の胸を暖かくする。あばたもえくぼだとか、惚れた欲目だとかいう言葉が脳裏をよぎったけど事実なのでそのまま通り過ぎてもらうことにしよう。
「何が?」
「…………」
変わらず笑顔のまま臨也さんがそう尋ねてくる。もしこれがチャットでの出来事だったら『も〜寂しかったんですよ! ぷんぷん☆』と軽く流してくれるだろうに。目の前の、笑みを浮かべていなければ酷薄そうに見える彼の表情に似つかわしくはない言葉だけど長く甘楽さんと付き合ってきたのだからどうしても彼女の言葉が浮かんでしまう。
何が、とあえて聞くということはもしかしたら僕が思っている以上に怒っているのかもしれない。
「その、誕生日当日にお祝いを言えなくて、です。……ごめんなさい」
「本当に悪いと思ってる?」
だから謝ってるんじゃないですか、という言葉をぐっと飲み込み、再度すみませんと謝ると臨也さんは肺の空気を全部押し出すようなため息を吐いた。
「口だけだったらいくらでも言えると思うんだけど」
「…………」
その言葉にそろりと視線を下に向けた。
口だけって、そんな言い方はどうなんだろうか。僕だって悪いと思ってるのに。臨也さんが仕事があるから連絡してくるなって言わなければ、祝う準備はちゃんとしていたのに。
そんな風に考えている時点で彼の言う通り、口先だけでは謝っておきながらも心の中では僕は悪くないと言っているようなものだ。他人の機微に聡い彼が見抜かないはずがない。
「じゃあ、どうしたらいいんですか」
口にしてからふてたようにしか聞こえない言葉に恥ずかしくなる。まるで怒られている子供が言ってるような反論だ。臨也さんが小さく笑う声が耳に入ったから尚更羞恥は強くなり、知らずぎゅっと膝の上でグラスを握る両手の力を強めた。
「そんな顔しないでよ」
「……っ」
するりと彼の両手が抱き寄せるように僕の肩に回る。本当に彼はよく他人を見ている人だ。そうやって触れてもらうことで少しだけ僕の心が和らいだ。
「寂しかったって、我が儘言いたかっただけ。困らせるつもりはないんだよ?」
懐くように臨也さんが肩口に頭を擦りつけた。僕の肩にあった手がゆるゆると下がり腰にまわる。その密着度に浅くなりそうな呼吸を押さえ込んだ。臨也さんは本当にずるい。そうやって上手に反論を塞ぐのだからこの人にとっては僕なんて掌の上でころころ転がってるようにしか見えないんじゃないかと不安になる。
ねえ、と甘えるような、甘やかすような声に渋々の体を装って視線を向けてみても全部彼にはバレバレなんだろうなと思った。
「僕だって、その……ちゃんと臨也さんをお祝いしようと、思ってたんですよ?」
「……本当?」
「本当です。嘘をつく理由がないじゃないですか」
唇が触れ合いそうな近さで囁くようにお互い言葉を紡ぐ。声が震えないように、でも固くならないように、なんて必死に思いながら声を出すのは少しでも彼に並びたいからだ。歳の差はどうしようもないとしても、彼に子供だからと一蹴されるような存在にはなりたくない。
「じゃあ今度、お祝いしてくれる?」
「当たり前です。……今度はいつ時間が空き、」
最後まで言えないままちゅ、と音を立てて臨也さんが僕の唇を塞いだ。舌を絡ませるような濃いものではなく触れ合うだけのそれに自然と恨みがましい目になってしまう。何で僕が話してる最中に遮るのか。もしかしてしばらく予定の目処が立たないからごましたいんだろうかと邪推が頭をもたげる。
そんな不満そうな僕の顔を見ながら臨也さんは小首を傾げ、次の週末はちゃんと空けておくよ、と囁いた。
「だからさ、金曜日から泊まりにおいでよ。……ね? 約束」
吐息を多分に含んだその声にこくりと喉が鳴る。そんな僕に臨也さんは小さく笑い、小指を差し出してきた。
指切りなんてかわいらしいことをこの人でもするんだと思いながらそれに小指を絡める。
「約束……ですよ? 今度は仕事があるからって言わないでくださいね?」
「わかってる。帝人君も、やっぱり行かないなんて言わないでね?」
僕から彼との約束を蹴ったことはない。それは社会人(にカテゴライズしていいのかわからないけど)である臨也さんより学生の僕のほうが時間があるからという理由なだけであって、思いの強さとは関係ない、と思いたい。
指切りげんまん、と口ずさみながら伏し目がちに絡めている小指を見つめている臨也さんの目元を見ているとしみじみこの人の容姿は整っているのだなと思い知らされる。端正な顔立ちを見つめつつぼんやりと彼が指切った、と言い終わるまで眺めていると指を解いた彼がゆっくりと視線を上げて僕の顔を見た。
あ、キスされるかもしれない、とわずかに身構えた僕の目の前で臨也さんが立ち上がる。
「あ……」
「何?」
ぽろりと零れた不満を訴えるような声に臨也さんは首を傾げ、僕はそれに左右に首を振って応えることしかできなかった。どうしてキスをしてくれないんですか、なんて聞けるほど僕の羞恥心は退化していない。
「ところでさ、帝人君?」
「何ですか?」
えらく機嫌のいい様子で臨也さんはクローゼットを開けた。あの上機嫌の理由が週末のことを思ってなのだとしたら、それがわざとそう見せているのだとしても僕だって悪い気はしない。
「さっきの話だけど」
「……さっき?」
「そう。どうしたらいいのかって俺に聞いたよね?」
臨也さんは上の棚の方に手を伸ばすと何やら箱を手に取り片手でクローゼットを閉めた。どうしたらいいかって、何の話だろうと一瞬考えてすぐに思い当たる。
さっき臨也さんが口だけなら何とでも言える、と言ったからじゃあどうしたらいいのかと確かに聞いた。
「言いましたけど……」
でもその話はもう終わっていたはずじゃなかったんだろうか。週末に祝うのだから彼が怒る理由はないはずだけどと思う僕の目の前で臨也さんはパカリと箱の蓋を開いて見せた。中に入っていたのは小瓶だ。それが三つ、動かないように包装されているそれはどれも同じ形をしている。中に入っている液体の色も無色透明でラベルが貼られていなかった。
無言でこれは何かと問うように臨也さんを見上げると彼は涙袋を押し上げるように微笑んだ。
「この中から一つ選んで。それを飲んだら許してあげる」
「……え?」
飲んだらって、何が? 許すってどういう意味だろう。
臨也さんは眉を顰めて見上げる僕の手からグラスを取り上げるとノートパソコンの隣に置いた。水滴がまとわりついていたグラスは手から滑り落ちそうだったからローテーブルの上に置いてもらえたのはありがたいのだけど、一連のその仕草を眺めながらも言われている意味がよくわからない僕に臨也さんは立て板に水とばかりに説明してくる。
「これさぁ、俺が取引してる会社の薬なんだけどね。新宿の情報屋、なんてのと関わってる時点でまともじゃないことはわかると思うんだけど、そのまともじゃない会社が作ってる人体には影響のない薬だよ」
どこから突っ込めばいいのかわからない。まともじゃない会社という時点で副作用が心配になるが、ああでもそういう会社だからこそ人体実験なんかも抵抗なくできるから影響がないと断言できるのかもしれない。
「これ、中身は何ですか?」
「右から順に自白剤、幻覚剤、勃起不全治療薬」
その答えには、はぁ、と返すことしかできなかった。どれもこれも馴染みのないものだ。幻覚剤ってそれドラッグの一種なんじゃないだろうか。
「あの……」
「週末のお祝いはもちろんしてもらうけど、当日に祝ってくれなかった謝罪はやっぱりしてもらいたいなぁって思って」
ぱちぱちと瞬きを繰り返す僕を臨也さんはにこやかな笑みを浮かべたまま見つめている。繰り返し言うが、謝罪も何も臨也さんが仕事があるから連絡をしてくるなと言わなければ良かっただけの話だ。何とも理不尽な要求だなぁと思う。思うけど。
「……」
「あれ? それにするの?」
真ん中の幻覚剤を手に取ると臨也さんは不思議そうに首を傾げた。
「副作用はないんですよね?」
部屋の明かりに透かすように小瓶を持ち上げてみるが中身は水にしか見えない。味もこの色と同じく無味なものだと良いのだけど。
彼の謝罪しろ、という言葉は不当な要求だとは思うが、それを引き受けてみてもいいかなと思ったのは彼のためというよりも、薬に興味があったからだ。
普通に生きていればこうった薬の類なんてまずお目にかかることはない。仮に手に入るとしても効果の真偽が怪しかったりとか、それこそドラッグに類似したものになるんじゃないだろうか。
臨也さんが僕に飲ませるのだとしたら真実副作用なんてものはないんだろう。後遺症も残らないというのであれば少しくらい試してみたくなるのが人間というものだ。特に自分は非日常への欲求が人より強い。可能なら並べられている薬を一通り試してみてもかまわなかった。
「これ、どれくらい飲んだらいいんですか?」
「……、数滴程度でいいんだけどさ」
「臨也さん?」
彼は箱をローテーブルの上に置くと僕の手から小瓶を取り上げ左右に振ってみせた。
「そうか、君はこれを飲んでもいいと思えちゃうんだね」
「え……えぇ、まぁ……」
「謝罪をする気はある……と見せておいて実際のところは変な薬を舐めてみたいっていう興味心からかな。後遺症や副作用がないと本気で信じてるのはそれだけ俺を信用しているってことか。信頼されてるのは悪くないんだけど、帝人君」
僕の心を的確に言い当てる言葉に曖昧に笑うと臨也さんはその小瓶も箱の中に戻してしまった。
「理不尽だなって思わない? 俺の主張が」
「……思いますけど、まあ、別に……そうやって祝って欲しかったって言ってる姿は、」
可愛いですよ、と言いかけて言葉に詰まる。仮にも年上である相手にこの言葉を言っていいものか悩み、結局恋人冥利に尽きるんじゃないですかねと言い換えておいた。
「そう」
その答えは臨也さんにとって満足のいくものだったらしい。頷くと彼はまた僕の隣に腰かけた。
「……臨也さん?」
石榴色の瞳がじっと僕を見つめる。二度彼はゆっくりと瞬きをすると片手を自身の唇の前に持っていきまるで考え事をするかのように首を傾げた。重力に従って彼の髪がさらりと流れる。柔らかな猫っ毛は触ると気持ちがいいことはよく知っていた。一度も染められたことがないらしい髪に触れたいな、と思っていると臨也さんがぽつりと口を開く。
「ごめんね?」
「……はい?」
「帝人君がそんな素直に言うことを聞くと思ってなかったし、俺の我が儘に怒らないって思わなかったんだよ」
「はぁ」
「仕事があるから会えないって言ったじゃないかなんて詰られると思ってたんだけど……帝人君、俺が思ってる以上に俺のことが好き?」
「そ、それは……」
そんなこといきなり聞かれても困る。
うろたえて視線を下方に彷徨わせる僕に臨也さんは童話の猫のようなにやにやとした笑いをして見せた。
「俺、自分が思ってるよりも君のことが好きみたい」
「え、あ……え?」
突然の告白に思わず顔を上げてしまう。じわじわと耳が熱くなる。指の先の感覚までなくなるほどの羞恥って本当にあるんだと、まさか自分が体感するとは思わなかった。
そんな僕の様子に頓着することなく臨也さんは僕から目を逸らさないまま言葉を続ける。
「だからかなぁ、人間観察は得意だと思ってたはずなんだけど君相手じゃ上手くいかないんだよね」
そんなことはまったくない。常に彼の手の上で転がされているのだし。それを口にするべきかどうか悩む僕の方に臨也さんがゆっくりと手を差し出してきた。
「俺の予想では君はもういいですって怒鳴るとか、自分の胸に手を当てて理由をよく考えてみたらどうですかとか反論してくるかなって思ってたんだよ」
そんなことを言えるほど僕は彼の好意にあぐらをかいているように見えるんだろうか。簡単に軽口が言えるくらいになれたらとは思うけど、まだまだ僕には先が長そうだと思いながら近づく手を、何ですかと言って止めようとしたときに違和感に気付いた。
腕が持ち上がらない。
「……え?」
惚けたような声しか出せなかったのは口が上手く回らないからで、臨也さんの手が押すままベッドに転がったのは身体に力が入らなかったせいだ。体重をほどよく受け止めてくる柔らかなマットは勢いのまま横になっても痛みなんかないし、上質なシーツは気持ちいい。
臨也さん、と名前を呼ぶことすら苦心してしまう自分に戸惑いながら僕を見下ろしている彼の名前を呼ぶと、ゆったりと目を細める姿が視界に入る。突然のことに驚いているのは僕だけだとよくわかるその表情に原因は臨也さんなのだとすぐにわかった。でも元凶がわかっても経緯が理解できない。
「口論になって、怒った帝人君がこの部屋から出るだろうなぁとかそういう想像していたからさ。無理矢理君に謝罪させる方法ばっかり考えていたんだよね」
目だけで問う僕の髪を撫でる手は優しいのに言ってる内容は真逆だ。無理矢理謝罪って、不穏なにもほどがある。
生唾を飲み込んだのは何をされるかわからない恐怖心からだった。指先だけで縋るようにシーツを掴もうとしても緩い力でひっかくことしかできない。
「心配しなくていいよ? 俺が思っている以上のちゃんとした答えをくれたからね。今日は酷いことはしない」
ね? と端正な顔に微笑を乗せた臨也さんはこんな状況でなければ見惚れてしまうところだけど、今日は、というところに突っ込むべきだろうか。今日も明日も明後日も一年後だって酷いことなんてされたくない。
そもそも満足に動けない状態の僕の衣服に手をかけるそれは酷いことの範疇に入らないのだろうか。
「あ、の……いざや、さん?」
「あぁ、どうして動けないか気になる?」
学校からそのまま彼の家に直行したから今僕が身につけているのは来良の制服だ。しゅるりとネクタイが首から外される音が耳につく。
「ただの筋弛緩剤だから安心して。とは言っても、アイスコーヒーに混ぜて飲ませたから吸収効率はあんまりよくないみたいだけどね。一応動けるみたいだし」
シャツのボタンを外している臨也さんの手を止めるべく動かした僕の手を掴むと、彼は指先に唇を押しつけてから、邪魔だと言わんばかりに僕の手をシーツの上に戻してしまった。普段なら簡単に動かせる腕を持ち上げることすら億劫だ。
「本来こういった薬って注射か点滴で直接体内に入れるのが一番確実だし効果が出るんだけど、素人がそういう使い方すると最悪死ぬことがあるんだよねえ……知ってる? 仮に心臓に筋弛緩剤を注射した場合なんだけど」
臨也さんの長い指がぴ、と指さすように僕の左胸に触れる。きっと彼の指の下では僕の心臓が緊張と混乱のせいでとんでもない早さで動いてることだろう。
「意識はちゃんとあるのに心臓が動かないことで酸素が供給されないからすっごく辛いらしいよ。呼吸はしているはずなのに酸欠にならないといけないんだからその苦しさたるや言わずもがなってやつだ。ああもちろん、俺はそんなことしないけどね。それにこれは薬がどういったものかを説明するための極論だし」
「ん……っ」
人差し指だけで彼は僕の乳首をくすぐるようにいじってくる。元々そんなところで感じるような性癖はなかったはずなのにこの人の手で作り替えられてしまった。
僕のあげた声に臨也さんは満足そうに微笑むと、そのまま笑みを深めて遠慮願いたい申し出を……いや、申し出なんてかわいいものじゃない。死刑宣告に似た言葉をのたまった。
「帝人君が良い子だったから、優しくしてあげる」
優しくするなら薬なんて使わないでもらいたい、という僕の声は形にならなかった。
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