La Belle et la Bete
「別れようか、帝人君」
唐突に告げられた言葉にゆるりと首を傾げる。臨也さんは仕事が一段落ついたのかパソコンから目を離し、いつもの笑みを浮かべたままじっと僕を見ていた。
言われた言葉の意味をしばらく考えてからそっと、できるだけ震えないように苦心しながら声を押し出す。
「誰か他に好きな人でもできましたか?」
「いいや、別に?」
「遊びで付き合っていた方と子供でも?」
「俺がそんなヘマをすると思う?」
臨也さんならしないとは思うけど、女の人って意外なところで狡猾だ。どんな隙をつかれるかわからない。それに存外この人は機嫌がいいときほど足下をすくわれてたりするし。だけどまぁ、それが理由ではないのなら何か別の事情があるんだろうと思考を巡らせた。
「それならまた仕事ですか?」
臨也さんは前にも似たようなことを言ってきたことがある。仕事の都合で一ヶ月ほど別れてくれない? と。言われたときは意味がわからなくて、目を丸くする僕を今すぐ出て行ってと部屋から追い出したのはこの人だ。そんなことをしておきながら言葉通り一ヶ月後には平気な顔で、疲れたから慰めて帝人君、と僕の部屋に押しかけてきた。何を言ってるんだろ怒ったし、あなたに振り回されるこっちの身にもなってください、と文句は言ったが笑みを浮かべたままの彼が本気で謝罪する気があったのかなんて言うまでもない。
「そういう仕事は今のところないかな。前に引き受けたあれ、すっごい面倒だったからもうしたくないし」
臨也さんは僕と同じことを思い浮かべたのかうんざりしたように息を吐き出した。よっぽど手間のかかる仕事だったらしくその目には本気でそう言ってる色が浮かぶ。なるほど、嘘じゃないらしい。
仕事でも女性問題でもないとすると残る理由は多くない。
「……じゃあ、僕に飽きましたか?」
できるだけ素っ気なく聞こえるように告げた言葉は今度は否定されなかった。僕と彼との間は歩いて数歩の距離で、それくらい近ければ普通は相手の感情が透けて見えるはずなのに臨也さんが相手だとそれすら満足にできない。彼のその表情が肯定なのか、否定なのか。口で否定しないということは肯定か。それならしょうがない。
ふぅ、と肺から空気を押しだし膝に乗せていたノートパソコンをローテーブルに乗せる。データは保存しておこう、と思ったけど突然別れ話を持ちかけてくるような人非人相手に気を遣う必要はないかとそのまま電源を落とした。ちょっと厄介なデータ処理だったけど、これくらいなら僕じゃなくても誰でもできる。普段なら波江さんが引き受けてる仕事だし、と僕より長く彼の仕事を手伝っている彼女のことを思い浮かべた。波江さんのように、彼に傾倒しない人間だったらせめて仕事仲間としていられたのだろうか。それも土台無理な話だけどさ。
無言でソファから立ち上がりキッチンへと向かう。流しの隅に置かれているマグカップはさっきコーヒーを飲むのに使ったものだ。買ったときは真っ白な無地だったけど、今では茶渋が内側にこびりついていた。そんな汚れたの使わずに新しいの買えば、と言われたときには曖昧に笑って誤魔化したけどそれで良かったと思う。僕が彼の事務所に置いている食器はこれだけだ。ここ二年ほど臨也さんはこのマンションに入り浸っているから自然と僕もこの部屋に足を運ぶ回数が増えていたけど、考えてみれば他のところにもそう自分の荷物は置いていない。考えてみれば、も何も、あまり物を増やすのは好きじゃないから意図的にそうしていたのだけど。
後は洗面台に置いている歯ブラシ……は、別にいいか。風呂場掃除にでも使ってもらおう。彼が私室として使っている場所には僕のためだと言って衣類が置いてあるけど、それも臨也さんがいつの間にか用意してくれていたものだし、それなら処分も彼に任せた方が早いに違いない。彼が買ったものを持って帰るのなんてごめんだ。
「みーかーどーくーん?」
「はい?」
マグカップを簡単にゆすぎタオルでぬぐってキッチンから出ると臨也さんがパソコンデスクの上に頬杖をついてこちらを見ていた。その目はさっきと違いわかりやすく不満を訴えている。何でそんな目をされるのかわからず、どうかしましたか、と問いかけると重い重いため息が返ってきた。それに僕も思わずむ、とした目線を返してしまう。
せっかくこっちが気を遣って、僕が持ち込んだものくらいは処分しようと思っているのになんだその態度。一方的に別れを切り出しておきながら後腐れ無くしようとしていることにまで文句を言うなんて、本当にこの人の性根はどうかしている。
「一応聞くけど何してんの?」
「何って……見たらわかると思うんですけど」
「うん、俺の目から見たら帝人君が荷物をまとめてるようにしか見えないね」
事実そうだ。まさか僕がキッチンに行ったのは包丁でも持ち出すと思われていたんだろうか。僕はまだ犯罪者にはなりたくない。
「まとめるほどの荷物はないですよ」
「……うん、そうだね」
臨也さんはくるりと座っている椅子を回すと腰を上げ、すたすたと僕がさっき座っていたソファの前で立ち止まった。ローテーブルの上のパソコンを起動した後僕が打ち込んでいたファイルに目を通したらしい彼が小さく、えげつないな、と呟く声が聞こえる。その言葉はたぶん途中まで打ち込んでいたデータを全部消したことにかかるんだろう。えげつないも何も、それは僕がやった仕事だ。消える人間の痕跡は少ないほうがいい。後々間違っていたと文句を言われてももうこの人の仕事を手伝う気にはなれないし。
臨也さんはまた深い息を吐き出しながらソファに座ると突っ立っている僕に目を向けた。その目はさっきと変わらず不機嫌そうで、どこか拗ねているようにも見える。自分の顔が童顔だという自覚はあるけど、臨也さんも
こんな顔をしていると幼く見える。元々年齢不詳な人だけどさ。
「帝人君、こっち来なさい」
「は?」
「いいからここ、座って」
何でそんな命令口調で言われないといけないのか、という不満を顔と声に浮かべると臨也さんは彼の隣を叩いた。そこに座れと言われても、別れを告げてきた相手とそんな至近距離で座るような趣味は僕にはない。
渋々僕は人一人分の距離を開けてソファに座ると臨也さんはその態度にも眉間に皺を寄せてきた。
「あのさぁ、帝人君。今日が何の日だかわかってる?」
「今日ですか?」
言われてポケットから携帯を取り出す。四月一日、と表示されているそれをしばらく見てからあぁ、と思い当たった。
「エイプリルフールですね」
一年に一回嘘をついて馬鹿騒ぎをする日だ。国によって風習は異なるから午前中までなら嘘をついていいとかいろいろあるんだっけ。
「そう、ポアソン・ダウリルだ。元々の根拠がどこにあるのかも曖昧な風習ではあるけど、今日ほど世界共通で馬鹿なことをやらかす日はそうないと思うね」
「そうですね。時差はありますけど」
「そこはまぁ、置いておきなよ。それよりもだ」
臨也さんはわざわざ僕がとった距離をつめるように近づいてきた。だから無言で後じさろうとすると彼も何も言わず僕の腕を掴んでくる。まともに顔を見れず斜め下あたりに目をやると、また名前を呼ばれた。
「ただの四月馬鹿の冗談なんだけど」
「…………」
そうか、言葉遊びのつもりだったのか。だけど今日つく嘘というのは誰もが楽しめる程度のライトジョークが望ましいと思う。この人ならいきなり別れを告げてきてもなんらおかしくはない、と考えている僕の心中を咎めるように臨也さんが腕を掴む手に力を込めてきた。
「い……った、いざ、」
「エイプリルフールを忘れてた、っていうことは別にいいよ。三日ほどずっとここで仕事してもらってたしね」
情報屋にも一応年度末というものは存在しているらしく、手が足りないから手伝ってと言われたのが一週間ほど前だ。春休みで特に用事もない僕を臨也さんはここぞとばかりに酷使し、一昨日あたりからは家に帰ることもままならなかった。どうりで日付の感覚がおかしいわけだ。労働基準法に反するような拘束時間じゃなかろうか。その分給料ははずんでもらうけど、でも手伝いという範疇は超えてると思う。
その苦情を口にするよりも先に臨也さんはすぅ、と目を細めて僕を睨め付けてきた。
「なんで別れたいって言われてそうあっさり納得できるの?」
そんなの答えは一つだ。
「それはまぁ……臨也さんですから」
昨日どれだけ愛情を告げる言葉を散りばめられても今日になったらやっぱり飽きちゃった、と昨日と変わらぬ笑顔でのたまうことができるであろうこの人の言葉を一々考えるほうがおかしい。
だというのに臨也さんは僕の言い分に納得がいかないらしく、眉間に皺を寄せて何それ、と言ってきた。
「俺だからって何?」
「臨也さんは臨也さんですよ。……それ以外に理由なんかありません」
「つまり俺を信じてないってこと?」
この人まさか、自分が信頼するに値する人間だと本気で思ってるんだろうか。だとしたら一度自分の行動を全て省みてもらいたい。僕が出会ったときからずっと裏切る算段をしていたくせに。
そんな相手だとわかっていてもこうやって隣にいる時点で僕の趣味の悪さは自覚しているからしょうがないけどさ。
それだけ好意を持っているのかと聞かれたら返事に困るが、それでも憎むことも嫌うこともできないし自分からこの手を離すこともできなかった。それくらいいつの間にか僕はしっかりとこの人の手を握りしめていたということで、それすらももしかしたら臨也さんにとっては計算の上だったのかもしれない。
最初からこの人の手の上で転がされて始まった関係なのだから、この人が幕を引きたいと思ったときに終わりにならないわけがない。だから別れよう、といつ言われてもいいようには準備はしている。
「あのさ、君がいつ俺と別れてもいいようにあまり荷物をここに置かないでいるのは知ってるけど」
バレバレだったらしい。この人相手に隠し事ができるとは思ってないから別にいいのだけど、でもそう口にしながらまるで懐くように、縋るように肩に顔を伏せられると少し気まずくなってしまう。
「……俺たち何年一緒にいるかわかってる?」
そんなあっさり切り捨てられる絆しかないの、と囁かれた言葉にぎゅ、と目を瞑る。
簡単に手放せるのなら彼が全ての黒幕だと知った時点でそうしていた。あのときのお腹の奥が液体窒素でもぶちまけられたようなひやりとした感覚は数年経った今でも忘れられない。
この人さえいなければ今も正臣や園原さんと一緒にいられたのかもしれない、という思いはある。でも今のこの状況のお膳立てをしたのは彼でも、そうなる選択肢を選び取ったのは僕だ。僕の人生の責任をこの人に求めるつもりはない。
だから憎いとか、そういった感情でこの人を信じないわけではなくただ僕は知っているだけだ。人のつながりはどれだけ自分が握りしめて離さないようにしていもあっさりと途切れてしまうことを。
「臨也さん」
僕の肩に押しつけてくる彼の頭をそっと撫でる。猫っ毛な彼の髪は触れると気持ちが良い。慣れたその感触を撫でながら、片手に握りしめていたカップをローテーブルの上に置いた。
名前を呼んだはいいけど何を口にしたらいいのかわからない。だから結局僕は無言で彼の髪を撫でることしかできなかった。
「帝人君はさ」
「はい?」
沈黙を破ってくれるのはありがたいから彼の言葉を促すように相づちを打つ。
「平気で俺を切り捨てられるんだね」
「……っ、そんなわけないでしょう」
切り捨てるのは僕ではなく臨也さんのほうだ。現に彼はあっさりと、冗談とは言え僕に別れようかと言えるような人間だ。それなのにどうしてこんなことを言われないといけないのか。
「そんなわけあるだろ。普通はさ、もっと嫌がるものじゃない? 別れたくないとか、飽きたのなら理由を聞くとか」
「でも臨也さん、愁嘆場は嫌いでしょう?」
別れる理由が僕に飽きただとか、好きではなくなったと言うのならせめてそれ以上嫌われないようにとあっさりとした態度をとろうとして何が悪い。
臨也さんはむずがる子供のように顔を伏せたまま頭を左右に振った。
「違うって。根本的にズレてるんだよ、帝人君。……どうして君は俺がこれだけ好きって言ってるのにそれを受け入れてくれないの」
「す、好き、って……」
直接こうやって好意を告げる言葉を彼は惜しまない。それは嬉しいと思うし、何度言われても慣れないから頬が熱くなる。
「別に、その、気持ちは疑ってませんけど……」
彼の飽きっぽいところはよく知っている。でも彼がこうやって、みっともないところを見せてまで愛情を伝える言葉を演技で言うような人間ではないことも、不本意ながらよくわかっていた。彼は嘘の愛情を伝えるのならもっとスマートに、僕を困らせない方法で毒を流し込むように絡め取るはずだ。そんな彼の悪辣な手口は間近で見ていたからよく知っている。
だから臨也さんが僕を好きだと、今この瞬間の言葉は本当なんだろうと思う。
「疑ってないなら何で? いきなり嫌いになるわけないだろ?」
「さぁ、それはどうでしょうか」
彼の言い分に小さく笑うと咎めるようにぺし、と緩い力で彼が僕の背中を叩いてきた。痛くはないから、なんとなく子供のようなその仕草に自然と笑い声をあげてしまう。
明日のことなんてわからないものだ。それは何より彼が雄弁に、言葉だけではなく様々な方法で教えてくれた。今ではいい経験だとは思っているが、当時は当時で振り回されたものだなと思う。……今でも振り回されてるけど。
「帝人君は何を怖がってるの」
「……?」
問われたのか、独り言なのかわからない言葉に首を傾げるとぎゅ、と臨也さんが抱きしめてきた。
「納得できないけど、君にとっては俺との別れはあんなあっさり納得できちゃうものなんだろ? 終わりに対して覚悟があるのは悪いことじゃないさ。でもだったら尚のこと俺の好意にあぐらをかいてもいいんじゃないかと思うんだよね。簡単に手放せる程度の愛情しかないんだったら俺のご機嫌伺いなんてする必要はないのに、君ってばせっせと俺の仕事手伝ってみたり、俺の我が儘に振り回されたりしてる」
振り回してる自覚があるのなら少しは控えてもらいたい。だけどどうしたんだろうか、この人がこんな殊勝なこと言い出すなんて思わなかった。どんな顔でそれを言っているのか知りたいのに、臨也さんは僕の背中に回した腕の力を緩めてはくれない。抱き潰すように込められた力が珍しいなと思うし、少しだけ嬉しいような気もする。
「そんなに必死にならなくてもいいのに」
「……臨也さん?」
「ね、教えてよ。俺の気持ちを疑いはしてないんだろ? それならどうして」
どうして今更俺に好かれようとするの。
耳元で囁かれた言葉に一瞬、頭が真っ白になった。
どうして好かれようとするのかって、そんなの僕は臨也さんのことが好きで、だから嫌われたくなくて自分にできることを精一杯やってるだけだ。そこに理由なんかない。だって僕は僕のできる限りのことをしないと、そうしないと――……
「……なぁに?」
咄嗟に臨也さんの背中にしがみついていた。まるで溺れた人間が掴む救命具か何かのようにぎゅうぎゅうと力を込める僕を咎めるでもなく、臨也さんはむしろ宥めるように、とん、とんと背中を叩いてくれる。
どうしたの、と尋ねる声には頭を左右に振って答えた。
さっき臨也さんが問うた答えを僕は持たない。深く考えると何かとても嫌な答えを思いついてしまいそうだった。それなら考えないでいるほうがずっといい。
ダラーズを手放してからいつも僕の思考はどこかふわふわと浮いているような気がする。大学の友人と話していても、ネット上での知り合いと会話をしていてもそれは変わらない。そういえば、以前と比べ自分の思考に没頭して他人の話を聞き流す回数が減ったような気がする。それはたぶん、いいことだ。人の話をちゃんと聞くのは褒められるべきことじゃないか。
だから深く考えることを放棄するのは悪いことじゃない。
「しょうがないな、帝人君は」
くすくすと臨也さんが耳元でわらう。
「いいよ、君が答えを見つけ出せないんなら。俺はどんな君であっても側にいてあげる」
その言葉は嘘だ、とはわかっている。この人もいずれ僕の隣からいなくなるなんてことは頭を使わずとも出てくる答えだ。その手をどうしても離したくないとは思っていても、どうやって離さないでいられるのかはわからない。例えばこの人を狭い部屋の中に閉じ込めたら物理的には一緒にいられるけど、そんなことをしたら彼は彼ではなくなる。
そうなると僕はもう、ただいずれ訪れる別れの日に備えることしかできなかった。
「あ、そうだ」
身体を密着させたまま臨也さんが思い出したように呟く。
「さっき消したデータ、頑張って復旧させなよ?」
「…………」
全部この人のせいなのに、本当に性格も根性も悪い。
不満を視線にこめて訴えてみると瞼に口付けされた。その甘やかすような仕草にひどく居心地の悪くなる。
どうして恋人(今は、と限定されるけど)からの触れ合いに僕はここまで不安にならないといけないのか。
浮かんだ疑問の答えを考えようとしたが思考がバラついて上手くいかない。だから代わりに、どうやってデータを効率よく戻せるかについて思考を巡らせた。