砂のお城でランデブー
一番最初はどこだったのかと考えてみる度に思い浮かぶのは夏の終わりの、まだ少し動くだけで汗が出そうな時期に衣替えをしなければならなかった日だ。クリーニングの袋を破って出したブレザーは重かった。街中だってまだ冷房をつけている店があるくらいの気温で、そんな中を正臣は『暑いからこそナンパだ、このほとばしる熱いパッションをナンパで解消するしかない』とか意味のわからない(わかるつもりもない)ことを叫んでいたっけ。暑くて突っ込むのも億劫な僕といつものように静かに微笑む園原さんを引きずりまわした結果はいつも通りだ。見るだけで暑い制服を着ている男子高校生のナンパに本気で付き合ってくれるOLさんなんているわけがない。
時代が俺に追いついてこないとかなんとか軽口を叩く正臣にはいはいそうだねそうですねーと適当な返事をしつつ(冷たいとかなんとか騒いでたけど暑いから丁度いいよね)日が暮れる前に別れた。もうすぐテストだったから家で勉強しないといけないし。正直、風もあまり通らない家でやるよりファミレスなんかでする方が捗るんだけど、制服のままどこかに寄り道する気にはなれなかった。それだけブレザーが暑く重苦しかったということだ。
晩御飯をどうしようかと考えながら横断歩道で足を止め、信号が変わるのを待っているときにふとすぐ横にあった携帯ショップのウィンドウディスプレイに目が止まった。
色とりどりの最新機種がインテリアのように並ぶそれを何気なく見つつ、懐の携帯に手をやった。僕が持っているのは古いタイプじゃないけど、やっぱり新しいものの方が使い勝手がいいのかな。ダラーズの掲示板も四月のあの日から前と比べて明らかに活発になってるし、手元にパソコンがなくても手軽に見られるのはいいかもしれない。もちろん今の携帯でも見れるようにはなってるけど、反応がちょっと鈍いんだよね。それって携帯の性能のせいなのか、単なるネットワークにつながるのに時間がかかっているせいなのかはわからないけどさ。
ぺたりとウィンドウガラスに掌をつけると少しだけ冷たい。そろそろ信号が変わるかな、と思って目線を移そうとした瞬間、ガラスに黒っぽい何かが映った。
「新しい携帯欲しいの? でももうしばらく待ったらこのシリーズの最新機種出るから、それまで待つことを俺はお勧めするね」
一瞬何を言われたのかわからなかった。僕の真後ろからほぼ耳元とも言える距離で告げられたその言葉に慌てて振り返り、その声の主と数歩距離をとってから、ああそういえばチャットでもそんなことを言っていたなと思い出した。
「……折原、さん」
学生のように強制されているわけでもないのに、この暑い中真っ黒なコートを着てにこりと笑って見せた彼に引きつった声が出る。
「やあ。学校帰りかい?」
「え、あ……はい」
「そう。大変だね、この暑いのに制服なんて」
それならあなたのその格好は何なのかと言いたい。言いたいが、これは彼のトレードマークのようなものなんだろう。新宿の情報屋としての。確かにふと街中で黒いコートを(この季節滅多に見かけることはないんだけど)見ると思わず目が引き寄せられる。だけど引き寄せられたからと言って、仮にそれが折原さん本人だとしても僕から声をかける理由なんてない。ほぼ毎晩のようにチャットで話はしているけどそれは甘楽さんであって折原さんじゃないし、平凡な高校生が情報屋相手に何を話すというのか。だというのにこの神出鬼没な人は時おりこうやって僕に話しかけてくることがある。とは言っても、この人と初めて会ってから数える程度だけどさ。しかも毎回後ろから唐突に声をかけてくるから心臓に悪い。
折原さんと目を合わせることもできず、視線を泳がせながら信号に目をやると青に変わっていた。渡りたいんだけど、このままそれじゃあ失礼します、と立ち去っていいものだろうか。駄目かなやっぱり。でもこの人とする会話ってあのときのダラーズ以来、特に意味のないものばっかりなんだよね。考査の結果はどうだったとか、新しいパソコンの話とか、天気の話とか。たぶん仕事帰りに僕を見かけて暇があったから声をかけてみたくらいのつもりなんだろう。もしかしたらダラーズの創始者だからと何か期待してくれているのかもしれないけど、残念ながら特に事件がなければ僕の日々は平穏そのものだ。あ、青信号が点滅してる。
「その、折原さんは今日はどうして池袋に?」
信号が赤に変わるのを見てから話さないのも失礼かと思い口を開いた。
チャットと違って肉声での会話はどこか浮き足だった気持ちになる。それは彼のやけにさわやかな声のせいなのか、それとも池袋での要注意人物である折原臨也としゃべっているという緊張感からなのかは自分でもよくわからないけど。時おり。オリハライザヤだ、と聞こえる声に自然背筋が伸びる。
「うん、ちょっと仕事でね。もう終わったんだけど君がとことこ歩いてる姿が見えたから声かけちゃった」
とことこって、なんだかその擬音は小動物みたいだ。遠まわしに僕の背が小さいことを揶揄されているんだろうか。折原さんだってそう高いわけでもないのに。……もちろん低いわけもなく、標準よりやや高い身長だけどさ。声も顔も体躯もいいなんてこの人って本当にチートだと思う。ネットでの甘楽さんとこの人が上手くつながらない要因の一つはそこにあるにちがいない。
「はあ、そうですか」
声をかけちゃったと言うが、そんなの別にチャットで言えばいいのに。
内緒モードで『今日ゲーセンに紀田君たちと行っただろ? 俺も近くにいたんだよ』と投げかけられたのはつい先週のことだ。ついでに僕だって『またゴミ箱ぶつけられてましたね』と声をかけることもある。そのくらいの応酬ができるくらいにはチャットでは雄弁になれるのだけど、どうも対面での会話は上手くいかない。正直、早く信号が変わってほしい。
そろりと視線を信号に向けると、折原さんが小さく笑う声が聞こえた。たぶん僕が何を思っているのかわかったんだろう。早くこの場を立ち去りたいなんて相手にとってはあまりいい気分のするものじゃないだろうけど事実なんだからしょうがない。折原さんだって、義理なのかなんなのかよくわからないけど、ただの高校生相手にいつまでもしゃべるほど暇な人じゃないだろうし。
「ねえ」
不意に折原さんの顔が近づいてきた。思わず一歩後ろに下がると、さっきまで見ていたガラスに背が当たる。至近距離で見つめる紅い目にざわりと妙な感覚が胸を騒がせた。
「俺がどういうときに君に声をかけてるか、気づいてる?」
「え……?」
どういうときにって、適当に目についたときに折原さんが暇だったら、じゃないだろうか。それ以外の理由なんて僕にわかるわけがない。
ぱちぱちと何度か瞬きを繰り返す僕に折原さんはゆったりと口角を上げ、涙袋を押し上げるように目を細めた。その顔はどこか猫科の動物を彷彿とさせる。全身が黒いから黒豹、とかかな。猛獣にカテゴライズされるのは間違いない。
「君が一人のときだけだよ、竜ヶ峰帝人君?」
……はい?
呆然と彼の顔を見上げ、その言葉の真意を問おうとした瞬間、折原さんは唐突にしゃがんだ。長い黒のコートの裾が地面に広がる。それ通行人の邪魔になりますよ、と声をかけようとした僕の鼻先を何か大きなものがすごい勢いで通っていった。そのせいで口から出かけた声は喉の奥に戻ってしまう。
ゆっくりと首を右に向けると、三メートルほど向こうに標識が刺さっていた。通常とは上下さかさまに。よく人に当たらなかったな。それは狙ってやったのか、はたまた通行人が偶然にも反射神経のいい人だったのかは池袋在住暦半年程度の僕にはわからない。
「いーざーやーくーん?」
わざとらしく間延びしつつも、敵意の篭もった声は左側から聞こえてきた。即座に首をそちらに向け、この街にいれば必ず目にするであろう姿を視界に映す。バーテン服にサングラスをかけたその人はやはり青筋を額に浮かべていた。ついでに、目の前でしゃがんだ体勢のまま僕と同じ方を向いている折原さんはものすごく忌々しいと言いたげに眉間に皺を寄せている。そんな顔するくらいならすぐに池袋から出ればいいのに。
「よおシズちゃん。相変わらず化け物だね」
「うるせぇ。死ね」
どうやら今日の平和島静雄はとてつもなく虫の居所が悪いらしい。言葉と同時に手近にあった標識を掴み、それをぐにゃりと曲げた。あの人の握力ってどれくらいなんだろうか。普通の計測器だと百キロくらいしか計れないだろうから何か別のものじゃないと計測できないんだろうなぁ。
「死ねって、シズちゃんは本当にボキャブラリーが貧困で頭が悪いよね。知ってる? 髪を染める染料って頭悪くするんだって!」
「いいから死ね!」
折原さんの人を煙に巻くような言葉を耳にいれることもなく、ひょいっとまるで野球ボールを投げるような、そんな軽さで折られた標識が折原さん目掛けて投げられる。しゃがんでいた体勢からさっと立ち上がると彼は苦も無くそれを避けた。僕の目の前に大きな音をたてて標識が刺さる。中途半端な力だったらもしかしたら倒れたかもしれないが、しっかりとコンクリートに刺さったそれは簡単に人の手では動かせそうになかった。
「やだなぁ、そんなの当たって本当に死んだらどうするんだよ。また警察のお世話になるんじゃないの? ああ、もしかして案外居心地良かった? それなら警察に捕まる原因になった俺に感謝してもいいよ」
「さっさと死ね」
折原さんの長い口上に六文字以上にならない言葉を静雄さんが返す。そんな言い合いを続ける二人からそろそろと身体を動かした。ちらりと視線を上げると、青信号がまた点滅しているところだったので慌ててその場から走り出し、横断歩道を渡る。
後ろを振り返るとナイフを取り出した折原さんと新しい標識を手にした平和島さんが対峙していた。周りの人たちは遠巻きに、できるだけ関わりにならないようにしながらも興味深げに眺めている。僕もここからその光景を見ていたかったのだけどそうもいかない。空腹感が僕の背中を囃し立ててるからだ。
池袋に来た日には、こんな風にあの光景が日常の一つとして認識されるとは思ってもみなかった。日常、というには頻度はやや低いけど、それでもどうしてもその場から動けないほど目を奪う光景ではもうない。
これが折原さんの言っていた、三日で非日常に慣れてしまうということなのかと思いながらも、家に帰りついたときに僕の頭にあったのは晩御飯と試験勉強のことだけだった。
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