砂のお城でランデブー 後
何度思い出してみても僕にとっての始まりはそこになる。臨也さんに聞いたら違うと言うかもしれない。だけど僕が明確に彼に声をかけられることを意識するようになったのはあの日からだ。
思えばあのときからずいぶん遠くにきたような気がする。住んでる場所が変わったわけでもなく、あれからたった半年と少し程度しか時間は経っていないというのに。
小さくため息を吐きながら狭くて暗い自分の部屋の隅っこで膝を抱える。動くと裂傷ができている右足が痛い。膝に顔を埋めると、殴られた頬のあたりにじんわりと鈍い痛みが広がった。
なんだかもう、全身で痛くないところはないような気がする。でも今日はまだマシなほうだ。だって意識をなくすことはなかったし。それでも、これだけ怪我をしていたらまた熱が出てしまう気がする。
埋めていた顔を上げ、包帯で巻かれた腕に響かないようにゆっくりと手を左側に伸ばす。充電器に繋がっていた黒い携帯を手に取りいつものようにメールフォルダを開いた。そこに並ぶ名前は一つしかない。当然だ。だってこれは彼がそのために僕によこしたものだ。
正臣が僕らの前から姿を消した翌日か、翌々日のことだったと思う。いつものようにふらりと僕の目の前に顔を出した彼は唐突にこう聞いてきた。
「寂しくない? 大丈夫?」
一瞬問われた意味がわからず呆然と彼の顔を見返す僕に臨也さんは少しだけ首を傾げて、だけど答えを待つように口を噤んでいた。
寂しいって、どういう意味だろうか。正臣がいなくなったことは彼の情報網に引っかかっていたんだろうけど、何故わざわざ僕の前に姿を見せてそんなことを聞いてくるのだろう。
何度か瞬きを繰り返しつつも彼の、大丈夫? という労わりを込めた言葉を反芻する。寂しいのかと聞かれただけだったらそれには簡単に首を振っていた。ひどく物足りないと、なんだかぽっかりと心に穴が開いてしまったみたいだと思う気持ちはあったけど、正臣が死んだわけではないし、いつかきっと戻ってきてくれるはずだから寂しいと思うことはおかしい。それに、僕は一人じゃないのだから。園原さんだっているし、と頭の中ではいくつもの言葉が回っていたのに口から出ることはなく、結局曖昧に笑うことしかできなかった。それを目を細く歪めた臨也さんは黙って見てて、壊れ物にでも触るように僕の頬に触れた。
「無理はよくないよ」
眉間に皺を寄せた顔を真正面から見てしまう。端正な顔をした彼は苦悩の表情を浮かべていても絵になった。
「どうして、折原さんがそんな顔をするんですか?」
僕の疑問に答えはなく、その代わりのように彼の腕が僕の後頭部にまわり、そっと引き寄せてきた。逆らうことなく彼の胸に顔を埋める。男同士でこんなのっておかしいじゃないかとは思ったが、それよりも彼がこの後どんな行動をしてくれるのかが気になった。
「帝人君が心配だから」
「心配って、何で」
上から降ってきた言葉に問い返すべく彼の胸元から顔を上げる。僕と目が合った臨也さんが宥めるように柔らかく微笑み、僕の目元に唇を寄せた。思わずぴくりと指が震える。それをごまかすように彼の黒いコートを握った。
「俺に心配されるのは、嫌?」
こつんと額をくっつけた距離で問われた言葉には慌てて首を振る。
「い、いえ……すみません、ありがとうございます」
間近で見つめる紅い目が潤んでいるように見えた。
もし彼が声をかけてきたのがチャットだったらもっと上手に言葉を返せていただろうと今になって思う。
無理なんかしていないと、だって正臣が選んだことなのだから、親友を信じるくらいは僕だってできるときちんとした形にして彼に渡せていただろう。
だけどそのときの相手は甘楽さんではなく臨也さんで、慰めるように触れる掌が暖かくて、ああきっと僕が女の子だったらその手に縋っていたのかもしれないなと思った。一瞬でもそう思ったことが間違いだった。そういう目でわずかでも臨也さんを見てはいけなかったのに。
他人の心の機微に聡い彼が、僕が自分で気づかないように隅に押しやろうとしたその感情に気付かないはずがないとどうしてわからなかったんだろうか。
「何かあったら、俺に言って」
紀田君ほど頼りにならないかもしれないけど、と囁く声に小さく、はい、と応えることしかできなかった。会話するにしては近すぎる距離も、するりと腰を撫でてくる掌も気にならないくらいただただ顔が熱かった。
「これ。使ってよ」
ゆっくりと離れていった手にほっとしている僕に臨也さんはそういって黒い二つ折りの携帯を渡してきた。それは最新機種ではなく、半年ほど前に出たモデルだった。臨也さんが声をかけてきたときに僕が見ていた、あの硝子の向こうにあった携帯と同じモデルだ。
だけどどうして携帯を渡されたのかがわからない。一応、僕だって携帯料金を払うくらいの貯えはあるのに。
僕が何か言うよりも先に、臨也さんの人差し指が止めるように唇に触れた。
「それさ、番号一つしか入ってないよ。メールアドレスも。……仕事相手には絶対に教えないやつ」
にっこりと笑んだ臨也さんの顔がやけにきらきらして見えて僕は言葉を失ってしまった。
つまりそれって、これには彼のプライベート用の番号が入っていて。
「また連絡するよ。ああ、君からしてくれてももちろんいいから」
混乱する僕に彼はそう言うと、背を向けていつものようにさっさと立ち去ってしまった。忙しい人だから、もしかしたら仕事か何かあったのかもしれない。そんな中わざわざ時間を割いて僕の身を案じてくれたことは僕の穴の開いたような胸を少しだけ暖かくしてくれた。誰かが自分を気にかけてくれているというのは悪い気分がするものじゃない。連絡するって言っていたけど、そうそうもらえるものじゃないことくらいは僕にだってわかっている。
だけど僕の予想を余所に臨也さんはその日の夜に電話をしてきた。内容は他愛ないことだ。他愛なさすぎてもう思い出すのも難しいのに、そのときひどく浮き立った気分になっていたことは覚えている。
そうやって身近な親友がいなくなったことでできた心の空洞を臨也さんは甘い言葉と優しい手で埋めてくれた。頼んではいない。いないが、差し出された手を掴んだことも後悔していない。甘やかされる時間はとても心地よかった。
そう、恐ろしいほどに心地よかった。だから自分はひどくそれに甘えていたのだと思う。
「…………」
手の内の黒い携帯のメールログを辿る。三日と開けずに送られてくるメールは短文で、『天気がいいね』だったり『新宿にもツバメの巣ってできるんだよ、驚かない?』と写真付きで送られたものばかりだ。その中にはダラーズの創始者も新宿の情報屋も介在しない。ただ僕を心配してくれている臨也さんが見え隠れするだけで、だから僕もこの携帯でやりとりするときは決してダラーズのことや、最近の池袋の動向を聞くことはなかった。なんとなくけじめだと思ったからだ。僕が普段使っている携帯から連絡をしてみても彼は最近とってくれないけれど、こっちの電話だったら数コールで繋がる。それもなんだか面映ゆく……最近は罪悪感が胸に蔓延っていた。
「……っ、」
唐突に携帯が震えだした。いつも使っている方じゃない。だから誰からかかってきたのかなんて液晶で確認しなくてもわかる。それをとるのが怖くて、息を潜めて携帯のバイブレーションが収まるのをじっと待った。
数十秒経つとぷつりと途切れ、液晶には留守番電話サービスにつながる音声が流れる。それが終わると、帝人君? と心配そうに問いかける声が流れてきた。
『まだ家に帰れないのかな? 今日も怪我してるんでしょう。あんまり無茶するなって言っても聞かないだろうから、言わないけど……』
はぁ、とため息を吐く音が聞こえる。それは嫌な思いを吐き出すというよりも、しょうがないな、とでも言いたげなものだった。
『帰ったら連絡ちょうだい。俺、連絡もらえるまでは池袋にいるから』
その言葉を最後に電話の切れる音がした。動かずに液晶を眺めていると、一件留守番電話を保存していますというメッセージが待ち受けに表示される。それに深く息を吐き出しながら頭を押しつけた。掌に力をこめていたせいで今更ながら手が痛い。意識すると打撲した左腕にもじわじわと痛みが広がっていくことに気付いてしまった。
怪我の処置はいつものように青葉君がしてくれたから問題はない。ないけど、だからと言ってすぐに怪我が治るわけじゃない。
怪我がひどいと夜中に熱が出て嫌な夢を見てしまう。初めて粛正で怪我を負ったときがそうだった。
何かに追い立てられるようなひどい夢。
目が覚めた瞬間部屋は真っ暗で、どくどくと波打つ心臓の音が妙に耳に響いた。は、は、と荒くなる呼吸。何かに急かされるように枕元に置いていた携帯を手に取っていた。真っ黒な、自分が夢の中で追いかけてきた何かと同じ色のそれを。
震える指でリダイヤルを押してコール音を聞く。いつもなら数コールで出てくれるはずの彼は中々声を聞かせてくれず、ただただ僕は早く、早くと焦っていた。
「……っ! いざ、や、さ、」
十回コール音が聞こえた後にがちゃりと電話が繋がる音がしたので慌てて声を出すと、携帯から聞こえてきたのは素っ気ない留守番電話サービスの音声だった。
どうして、どうして電話に出てくれないのか。いつでもかけてきていいよって言ってくれたのに、何で。
悪夢に寝ぼけてのかもしれない。でもそのときの僕は、まるで世界と自分をつなぐ糸を切り離されたような恐怖感を覚えていた。それから逃げるように布団から這い出して、黒い携帯と財布を握り玄関のドアを開けた。
電話で声を聞かせてくれないのなら直接会いに行けばいい。今までだって何度となく彼の部屋に招待されていたし、合い鍵だって財布に大事に忍ばせている。きっと彼が隣にいてくれたらこんな怖い思いをしなくても済む。電車は走っていないかもしれないけど、ここから臨也さんの家までだったらタクシーで行っても僕の財布の中身でなんとかなるはずだ。
そんな思考に囚われていた僕は自分の家の鍵を閉めることもなく階段を駆け下り――後三段残っているところで足を滑らせた。
「わ、あ、うわっ」
慌てて手すりに掴まり、勢いのまま三段分転げ落ちるように降りた。両手を使ったから握りしめていた携帯と財布が地面に落ちる。
身体を手すりに預けながら、よろよろとしゃがみ込んでその二つを拾った。
「……何、してるんだろ」
階段から落ちそうになったことで冷静な思考が帰ってきた。ぽつりと呟いて、本当に自分は何をしているのかとため息を吐く。携帯を見ると時刻は午前二時四十六分。こんな時間にかけても臨也さんが出るわけがない。きっと夢の中だ。
落ち着いてしまうと今しがた自分がしていた行動が恥ずかしくなる。良かった、臨也さんが電話に出なくて。もし彼が出たら、僕はきっとさっきの勢いのまま妙なことを彼に口走っていたに違いない。例えば、会いに来てほしいとか、そういう馬鹿なことをだ。一体僕は彼に何を求めているのか。
降りてきた階段を上りながら、でも臨也さん出なかったし、とほっと息を吐き出し、玄関のドアを開けた瞬間携帯が震えだした。思わず驚いて手元から落としてしまう。落としたそれを慌てて拾って、バイブレーションに急かされるまま通話ボタンを押した。
『帝人君? 何かあったの?』
「い……臨也、さん」
この携帯は彼専用なのだから彼の声が聞こえてくるのは当然だ。さっきまではあんなに聞きたいと思っていた彼の声も、今はただただいたたまれない。
『ごめんね、寝てたからすぐに気づけなくて』
彼の言う通り臨也さんの声は寝起きらしく少し掠れていた。そんな声は聞いたことがない。
後ろ手に玄関のドアを閉め、何と言おうかと考えながら、うー、だとか、えー、だとか意味にならない言葉を呟いた。
「あ、あの……その、」
要領を得ない僕の声に彼は怒ることもなく、うん、と頷いて僕の言葉を待ってくれていた。きっとこんな時間に電話をしたからひどく心配してくれたんだと思う。それだけで、僕の心はすぅっと軽くなった。
「すみません、怖い夢を、見ちゃって」
『夢?』
「そうなんです。ごめんなさい、たいしたことでもないのに電話しちゃって……でも、もう大丈夫で、」
『今自宅だよね?』
「ええ、そうです……臨也さん?」
臨也さんはそれだけ言うと電話を切ってしまった。……もしかして怒らせてしまっただろうか。そんなしょうもないことで起こされたのだから彼が怒るのは当然だ。
うう、と呻きながら黒い携帯を耳から離す。明日の朝、もう一度電話しよう。いや、まずメールで電話しても構わないか聞いてから連絡をとったほうがいい。これ以上彼に迷惑をかけたくないし、嫌な顔をされたくない。
自己嫌悪に陥りながらのそのそと布団の中に潜り込む。さっきまで僕がいたその場所は生暖かく、あまりいい寝床だと思えなかった。それに妙に目が冴えて眠れない。だけど明日も学校があるのだからちゃんと寝ておかないと。
そう思って目を閉じてどれくらいの時間が経っただろうか。突然コンコン、と玄関のドアをノックする音が静かな室内に響き、閉じていた目を開けた。こんな時間に尋ねてくる人間なんかいるはずがない。風か何かの音だろう。もしかしたら夢うつつで聞いていたのかもしれないと思いながら、そう言えばさっき僕は玄関の鍵を閉めたっけ、とぼんやり思っていると再度ノック音が聞こえた。
「…………」
勘違いで片付けるには大きすぎるその音にごくりと息を飲む。こんな時間にまともな知り合いが尋ねてくるだろうかと怯えながらも布団から起きあがり、ゆっくりとドアを開けた。
「やぁ、こんばんは」
「臨也さん……?」
驚いて目を丸くする僕に臨也さんは、ああ良かったちゃんといたね、と言いながら慣れた手つきで部屋の明かりをつけた。真っ暗な状態から突然明るくなった室内に目が追いつかない。何度も瞬きを繰り返して目が慣れてから臨也さんを見ると、ひどく難しい顔をしていた。片手にはコンビニの袋と思しきものを持っている。なんだか臨也さんとコンビニって不釣り合いだなぁと思っていると、臨也さんは眉間に皺を寄せたまま僕の顔に触れた。
「どうしたの、この怪我」
「へ……」
ぽかん、と間の抜けた顔で見つめ返す僕の額に掌を当てた途端、彼の眉間の皺が深くなる。
「熱出てる……こんなに体温が高くなってたら嫌な夢も見るよ」
言いながら彼はビニール袋から箱を取りだし、それの中身をぺたりと僕の額に貼り付けた。ひんやりとしたそれが気持ちいい。
「熱冷ましは?」
「へ?」
「解熱剤」
「え、そんなの、ない、です」
怒ったようなその声におそるおそる応えるとじろりと睨まれた。怒ったような、ではなく本当に怒っているのだ。
「あのねぇ、そんな怪我したら熱が出るのなんて当たり前だろ。顔と手と……他は? 脚も怪我してるんじゃないの?」
「でも別に、たいしたことないです。ちょっと蹴られただけで、」
「たいしたことがあるから熱が出てるんだろ」
一刀両断するような正論にぐ、と言葉に詰まり、怒っている彼を見ているのが怖くてそろりと視線を下にやった。眼孔の奥が熱い。
「ああ、もう」
苛立たしげな声に謝ろうと口を開くより先に彼の腕が僕を抱きしめる。怪我に触れないように、でも緩くはない力だった。
「……怒ってるんじゃないよ。だからそんな顔しないで」
宥めるように彼の手が背中を撫でる。そんな顔ってどんな顔だろうか。きっと情けない顔に違いない。
「びっくりした。君が悪い夢を見たって電話してくると思わなかったし」
「す、すみません」
その言葉に慌てて彼の身体を押しやりながら謝ると、離れるのを嫌がるように腕に力をこめられた。そんな風に抱きしめないでほしい。さっき彼は僕が熱が出ていると言っていたから、きっとそのせいでこの抱きしめてくる腕に縋りつきたくなっているんだ。そうじゃないと、そういう理由がないと。
「謝らないで。心配ぐらいさせてよ」
心配。そうだ、彼は田舎から出てきた、ずっとチャットの相手をしていた知り合いの心配をしているだけだ。この街で一番頼っていた幼馴染がいなくなった僕を純粋に心配しているだけで、そこに他意なんかあるはずがない。あっていいわけがない。あってほしいなんて、願っちゃいけない。でも。
彼の言葉の真意を探るべく、そろそろと顔を上げて彼の顔を見つめた。明かりのせいで彼の顔に濃く影が乗るけれど表情がわからないというほどじゃない。
彼は笑っていた。僕と目が合うと、その笑みを濃くしたのがわかった。
「なぁに?」
少しだけ語尾を伸ばす、彼独特の甘い物言い。こくりと自分の喉がなる音が聞こえる。その音は身体を密着させている彼にも聞こえたことだろう。
臨也さんは小さく喉で笑った。
「やだな、そんな目で見ないでよ。帝人君怪我してるのに」
そんな目ってどんな目だろう。僕の怪我とどんな関係があるのか。それを問うことはできなかった。ゆっくりと近づく彼の唇がそっと僕の口に触れる。何度かそれを繰り返し、後頭部に手の感触が、と思った次の瞬間にぬるりと熱い舌が口内に潜り込んできた。熱い。熱がある僕の舌も熱いのだろうか。
「ん……っ」
鼻にかかった声が出る。それをきっかけのように臨也さんの舌が僕の下唇を舐めてから、近づいてきたときと同じ速度で離れていった。少し呼吸が荒くなっている僕とは対称的に臨也さんの息は変わらない。経験値の差かな、と熱に浮かされた頭で思った。
「あ……」
臨也さんの腕が背中から離れる。思わず彼の黒いコートを掴むと、ちょっと困ったような顔をして臨也さんが笑ってから耳元で囁いた。
「熱が下がったら、ちゃんと続きしてあげるから」
続きって、何を。
そんな愚問は口にせず、彼に促されるまま布団に身体を沈めた。
「熱が下がるまでここにいるよ」
彼の掌が僕の頭を撫でる。ふと、彼は気付いたように一端立ち上がってから部屋の電気を消してまた同じ場所に座った。
「臨也さん……」
「何?」
なんとなく呟いた言葉に返ってくる声。それに安心して、もう悪夢は見ても怖くないと僕の意識はするりと深いところに落ちていった。
ぎゅ、と掌の携帯を握り込む。いつの間にか閉じていた目を開けて、中断していたメールログの続きに目を通す。
僕が悪夢と見たと彼に訴えた日から僕と臨也さんの関係は変質していった。粛正をやめることはもちろんできなくて、でも怪我をまったくしないでいられるほどの運動神経を持たない僕は度々怪我を負っていた。その度に臨也さんはこの携帯に連絡をくれる。さっきのように、だ。
だけどそれ以外にも頻繁に彼は僕に電話をかけ、普段より少し熱のこもった声で僕を彼の家に呼ぶようになっていた。大人しくそれに従っていたのは、世話になっている彼に少しでも恩返しをしたいという胸を張って言えるような事情ではなく、彼が言っていた『続きをしてあげる』という言葉通りの行為を求めていたからだ。
彼が触れる手は優しかった。頭がおかしくなるんじゃないだろうかというくらいに気持ちよかった。
臨也さんが与えてくれるものは何もかも僕にとって優しい。このままぬるま湯につかるような暖かさをずっと甘受していたかったけど、でももう僕の心は限界に達していた。
小さく息を吐いて受信メール一覧の画面を閉じ、リダイヤルを押す。一番上にある(それ以外の番号は出ないのだけど)名前を押して耳に携帯を当てた。ピ、ピ、と電波が繋がる音の後にコール音が響き、それは一コール終わるよりも先に途切れる。
『おかえり、帝人君』
「…………」
僕がこの携帯を粛正のときには絶対に持ち歩かないことを彼は知っている。万が一落としてしまったら困るからだ。新宿の情報屋のプライベートアドレスなんてある種の人間にとってはお金になる。
『今日も忙しかったみたいだね。怪我、したんじゃない?』
「…………」
彼にいつ粛清に赴くか言ったことはない。だけどそれくらいの情報は彼にとって簡単に手に入るものなんだろう。
『留守電聞いた? 今俺、池袋にいるんだけど』
「…………」
『帝人君?』
何も話さない僕に臨也さんが優しい声で名前を呼ぶ。それに応えることもできず黙っていると、臨也さんが苦笑したような笑い声を出した。
『しゃべれないくらい辛いのかな?』
「……それほどじゃ、ないです」
絞り出すように呟く。口を開けると切れていた口の端が痛んだ。
『しゃべれないほどじゃないけど、あんまり話ができる状態でもないってところかな?』
「…………」
『あはは、雄弁な沈黙だ。ちょっと待ってて、今から行くから」
そう続いた彼の言葉にごくりと喉が鳴る。震える両手でぎゅうと携帯を握り、声までは震えないように注意しながら口を開いた。
「来なくて、いいです」
『……どうしたの』
僕の言葉が予想外だと言わんばかりの彼の声の様子にそろそろと息を吐き出す。電話の向こうに聞こえないように。
「もういいです、もう、やめます」
『何、いきなり。何かあったの? それとも誰かに何か言われた?』
慈しむようなその声を聞くと自分の中の決心が揺らぎそうになる。黒い携帯を耳に押し当てたまま視線を彷徨わせたが、いつも使っている自分の携帯のところで目が止まった。
「違います。でも、もう……これ以上は、臨也さんに迷惑をかけたくないんです」
『迷惑? やだな、何言ってるの帝人君。俺が勝手にしてることなんだから君が罪悪感を覚える必要はないのに』
馬鹿だなぁ、もう、と囁く声は笑みが混じっていて、彼が本気でそう言っていることがわかる。
だけどそうじゃない、僕が彼を遠ざけようとしている本当の理由はそんな他人を思いやるような綺麗なものじゃない。
「僕はこわいんです」
『……何が?』
しがみつくようにして握り込んでいた黒い携帯から片手をゆっくりおろし、いつも使っている携帯に震える手を伸ばす。片手で操作して出したメール画面の一番上にあったのは、僕が出していた粛正の指示に唯々諾々と従うブルースクウェアの子達からの返信だった。
「本当はあなたの迷惑になることより……これ以上あなたに依存するのが怖い」
何よりも成すべきことがあるのに、僕の心の比重は自分でもぞっとするほどの速さで彼に傾いていた。彼から与えられる優しさが嬉しくて、もっともっとと愛情をねだる姿はどれほど浅ましく彼の目に映っているだろうか。
彼は決して僕を拒まない。悪夢を見ればかけつけてくれるし、そっと彼のコートの裾を掴めば小さく笑って抱きしめてくれる。それなのに僕は彼に何も返すことができなかった。返すものを持っていないからだ。ただただ自分は彼を搾取しているだけだ。
このままでいいはずがないのに、ということはもっと早くに気付いていた。だけどなんとなく自分から口にすることもできなくて、ずるずると今日まで続けていた。
自分の卑しい打算だけで彼の隣にいていいはずがない。
「ごめんなさい、臨也さん。僕は、」
できるだけ聞こえのいい言葉を選ぼうと頭を回転させる。今までずっと隣にいてくれた人の手を自分から放そうとしているのだから、恨まれてもいいくらいの覚悟が必要なのにこの期に及んで僕はちょっとでも彼に嫌われないようにと必死だった。
『…………』
言葉を探して口を開いては閉じる、を繰り返す僕を急かすでもなく、電話の向こうの臨也さんは黙っていた。その分彼の身の回りの音が聞こえる。カン、カンと音を立てて階段を上がってくる音は、僕がいるドアの向こうから聞こえるものと同じだった。
コンコン、と周りを気遣って密やかに叩かれるノック音。ふらつく脚を叱咤しながら立ち上がり、ドアの前に立つ。だけど自分からドアノブを回すことはできなかった。
「……僕は、これ以上あなたを頼りにすることで、自分が自分でなくなることが怖いんです」
『へぇ』
薄いドア一枚しか隔てられていないのだから彼の声がドアの向こうからと、携帯からと聞こえるのは別におかしなことじゃない。だからきっと僕の声は彼の両耳に聞こえていることだろう。
『……ふ、っ』
「……臨也、さん?」
『はは、あははははっ』
最初は震えている声に怒ったのだろうかと思ったがそうじゃなかった。
電話の向こうとドアの向こうから聞こえる声はこんな時間には近所迷惑だろうと言えるくらいの、笑い声だった。
『ねぇ、何を勘違いしているの?』
「え……」
ひどく呆けた声だったと思う。臨也さんはそんな僕に頓着することもなく一方的に言葉を紡いだ。
『選択肢が自分にあると思っているみたいだけど、おこがましいと思わない? 選ぶのは君じゃない、俺なんだよ』
笑み混じりのその声に身体が動かない。相変わらず彼は笑っていた。いや、違う。この声は笑い声じゃなくて。
『おもしろいねぇ、帝人君! でもだからこそ俺は君をずっと気にかけていたわけだけど、大事にしてあげていたからそんなことを思っちゃったのかな? 俺に頼ることで自分の存在意義を見失いそう?』
そこで言葉を切ると彼は一際大きな声で、嘲笑った。
『君がその程度だなんて俺は思ってないから安心しなよ! そんなくだらない人間に俺がここまでしてあげるわけないだろ?』
くだらない人間。臨也さんにとって、彼の甘美な毒のような優しさに浸食される程度の人間は取るに足らない存在に分類されるらしい。
脚の力が抜け、僕はぺたりとその場に座り込んでいた。掴んでいた僕のいつも使っている携帯が手の中から落ち、そんな僕に彼のどこか恍惚した声が追い打ちをかけてくる。
『でもそうだね、君が君じゃなくなるくらいおかしくなるのも見物かな。うん、それはそれで人間観察として見守ってあげてもいいんだけど、君は俺の想像を超えてくれるって確信してるんだよ。俺さぁ、初めてかもしれない。そんな風に思える相手って。喜んでいいよ、帝人君!』
名前を呼ばないで。どうかそんな弄ぶように、換えのきく玩具だと言うように僕の名前を呼ばないで。
黒い携帯を握りしめる、かたかたと震えている手を空いた左手で掴んだ。
『むしろおかしくなるのを見ていたいのかもね。だから罪悪感なんて感じなくていいよ、全部俺の希望通りなんだから』
聞きたくないと思っても、この携帯を放り投げてもドアの向こうにいる彼の声が止まるわけじゃない。
自分の身を守るように僕は身体を丸めた。
『だからさぁ、そんな馬鹿な虚勢とか全部捨てて見せてよ。君がどんな風におかしくなっていくのか』
その言葉を言い終えると同時に、コンコン、とまた彼はドアをノックした。この部屋の鍵は開いているのだから、開けようと思えば向こうから開くことができる。
だけど思い返してみれば、彼は一度も自分からこのドアを開けたことはない。いつも僕が彼のノックに応えて、彼を迎え入れていた。
どうしてそれに気付かなかったんだろう。どうして、いつも彼が与えてくれる優しさに疑問を感じていたのにそれを明確な言葉にして彼に尋ねなかったんだろう。
答えはこんなに簡単だった。僕はどこかでずっとわかっていたんだ。彼の優しさが偽りのもであることに。だから決定的な言葉を聞かないように、自分の疑問に蓋をしていたのかもしれない。
だけどもうそれは通用しない。
「……い、たっ」
切れた唇の端が痛む。自分がどんな顔をしようとしていたのかわからず、でも痛みを無視した表情が浮かんでいることはわかった。
今だ通話が繋がっている携帯を手から落とすと無機質な音が部屋に響いた。帝人君? と呼ぶ声はもうドアの向こう側からしか聞こえない。
ゆっくりと立ち上がり、緩慢な仕草でドアノブを回す。
ドアを開けた向こう側に立っていた悪辣な大人は耳に携帯を当てたまますっと目を細めた。微笑んでいるようにも、嗤っているようにも見えるその顔にどんな表情を返せばいいのかわからない。だけど臨也さんは僕の顔を見ると満足気に頷いた。
「それじゃあ帝人君、怪我の手当をして、嫌な夢なんか見ないように抱きしめてあげようか?」
明らかに僕の反応を楽しんでいる彼の手を握り引っ張ると、抵抗を見せずに僕の部屋に足を踏み入れた。
臨也さんが後ろ手にドアを閉めると同時にぽすん、と彼の胸元に顔を埋める。いつもしていたように。
それを嫌がるでもなく、彼は僕の背中に手を回した。
まるでさっきのことが無かったかのようなこの光景に僕は違和感を持たない。むしろ安心していた。彼が僕をただ自分の探求心のために利用していたというのなら、僕が僕の痛みを和らげるために彼を利用したって構わないはずだ。
すり、と頭を懐くようにすり寄せてから臨也さんの顔を見上げると、そこにあったのはいつものような柔らかい微笑みだった。そこに透けてみえる人を小馬鹿にするような嘲りには目を瞑る。
「ねぇ、帝人君」
彼の掌が僕の頬を撫でる。
「君はこれからどんな風に変わっていくんだろうね? 俺はそれがとても楽しみだよ」
言葉だけなら子供の成長を願う親のようだ。それに思わずわらい声が出てしまう。
臨也さんは口の端を上げた僕に嫌な顔も見せず、そっと顔を近づけてきた。それに反射のように顔を傾けて応える。
ちゅ、と音を立てて落とされたキスの後に臨也さんは彼の紅い目に僕が映るのが見える距離で、まるで秘め事を明かすように囁いた。
「どんな風に変わったとしても、君が壊れても傍においてあげる。だから存分に化けてみせてごらん?」
「……臨也さんは嘘つきですね」
知ってましたけど、と彼と同じくらいの声量で答える。彼の側にいられるのは彼が飽きるまでだ。壊れた玩具に夢中になる人間なんているわけがない。
「ひどいな」
「ひどいのは、どっちですか」
お互い至近距離で笑い合いながら囁き合う姿は仲睦まじく見えるかもしれない。だけど僕と彼の関係は……いや、関係と呼べるほどのつながりも、僕と彼にはないのかもしれない。ずっと見たくないところから目をそらしていた僕にとって、ようやく今から彼の本質と向き合えるのだ。
それが少し楽しみだと思えるのは彼の意向通りだろう。だけどいつまでも彼の思惑通りになってやる義理も、もうない。
唇をこじ開けるように絡んでくる舌に応えながら、自分の胸の中でひっそりと大事に育てていたはずの何かが枯れていく音が聞こえたような気がした。
おわり