転職する気はありませんが、(前)






 スイートルームに一泊するだけで平凡なサラリーマンの月給が吹き飛びそうなホテルのバーのカウンター、なんて隣にこの人がいなかったら一生縁がない場所のような気がする。

「だからさぁ、帝人君のその態度はどうかと思うんだよね」

 また始まった、と思いながら目の前のグラスに口をつけ、隣で管をまく酔っ払いにはいはいそうですね僕が悪いですねすいませんと適当に返事をした。真摯に謝ろうが口先だけの謝罪だろうが、翌日には全部都合よく忘れているのでおざなりな態度でもかまわないはずだ。

「もー、ほらぁ……またそうやって謝ればすむと思って」

 目尻を赤く染めた臨也さんはぺたりと懐いていた机から顔を上げ、琥珀色の液体が入ったグラスを一息に煽るとバーカウンターの中の人に、同じの、とオーダーした。あんまり飲まないほうがいいなんて忠告は今更だ。言ったところで聞きやしない。今までもずっとそうだったしこれからも変わらないんだろうと思う。というかこの人が変わるなんて思えない。

「だからぁ、帝人君はもっと貪欲になればいいと思うわけだよ、俺は」
「臨也さんから見たらたいていの人間は清貧にしか見えないでしょうね」
「そんなことないってぇ……」

 何杯目かわからないグラスをバーテンダーから受け取ると臨也さんはくすくすと笑いながらそれに口をつけた。
 自分が二十歳を越えてこの人と飲むようになってからわかったが、あまり酒癖がいいわけではないようだ。思えば僕が十代のときにはあまり飲まないように、飲んだとしても節度ある飲み方をしていたように思う。あのころ僕から見た彼というのはものすごく大人で、僕が困っていればいつでも手を差し伸べてくれる存在のように思っていた。
 トラブルがあれば相談して、情報をもらって、その通りに動けばなんでも簡単に解決していたのは、すべて彼が発端だったからに他ならない。結局のところ彼は私欲を満たすために動いているだけでしかないとわかっている。わかっていても彼の傍から離れることなんて終ぞできなかった。
 大学在学中に就職を決めるときだって、どこにも拾ってもらえなかったら俺のところにきていいよ、なんて言っていたがその後に求められる見返りが恐ろしく、必死になって就活したものだ。結果的にはそこそこ有名な企業に勤めることができるようになったのだから、彼の発破をかけるような言葉には感謝すべきなのかもしれない。する気はないけど。

「あーあ……でも帝人君もスーツの似合う大人になっちゃったねぇ」
「……どうも、ありがとうございます」

 ぺしぺしとゆるい力で背中を叩かれる。彼に初めてリクルートスーツ姿を見られたときには爆笑された。七五三? ぎりぎり成人式じゃないの! と腹をかかえながら言われたことを覚えている。自分でもそんな気はしていたので反論はしなかった。
 就職が決まった後に『ついておいで』と言われた先で目玉が飛び出るような値段のスーツ一式を揃えられたときには何を考えているのかと思ったが、なるほど、高い服っていうのはきちんと自分の身体に合わせれば見栄えするものらしい。その僕の給料二か月分のスーツを着た自分は子供の行事に参加しているようには見えなかった。
 臨也さん自身はラフな格好が好きだから、と言ってスーツを着ることはめったにない。今日はこんなところで飲むために着ているけど。それは僕も同じで、会社に着て行っているような二着合わせていくらというものではなく、臨也さんに仕立ててもらったものだ。考えてみればこれを買ってもらったのは一年前か。やっぱりこの歳になるとそう簡単に体格は変わらないものなんだなぁと思っている僕の顔を臨也さんがにやにやと見つめてきた。

「……なんですか?」
「んー? 別に……帝人君は相変わらずだなぁって思って」

 会ったころと変わらないよね、というのはどういう意味だろうか。身長だって伸びたし(雀の涙程度とか、それ伸びたっていうのかとか突っ込まれる程度だけど伸びたことには変わらない)中身だってそこそこ成長した、はずだ。少なくともこうやって新宿の情報屋と肩を並べて飲めるくらいには。

「僕は変わりませんか?」
「あはは、そうだね」

 グラスを両手で軽く揺らす臨也さんの目は酔っているせいで少し潤んでいる。美形の無駄遣いってたぶんこの人のためにある言葉なんだろうな。

「律儀で、礼儀正しくってさ。いかにも普通の子って感じなのに頑固だし自分の好奇心のためなら変な行動力発揮するし」
「昔の話じゃないですか」

 眉間に皺が寄る。酔うとすぐ昔の話を持ち出すから酔っ払いは苦手だ。それに臨也さんはお酒が入るととんでもないことを言い出す癖がある。

「そう? 昔も今も君は変わってないと思うよ」

 言いながらするりと臨也さんの手が僕の髪を撫でた。まるで女性にでもするようなその仕草は、昔なら慌てたり照れたりしたかもしれないがもう慣れたものだ。
 そろそろ悪い癖が出てくるな、と僕の眉間の皺が濃くなったのと同時くらいにやはり予想通りの性質の悪いことを言い出した。

「そういうぶれないところが気に入ってるんだよ」

 とろけるような笑顔でこんなことを言うものだから、初めて言われたときにはそれはもう、大変だった。臨也さんが、じゃない。僕がだ。うろたえて変な声が出て、満足に受け答えができない僕を彼は笑うどころか優しい(あの臨也さんを優しいと表現できたこと自体驚きだけどさ)目で見つめてきた。そんな顔を僕は一度も見たことがなく、勝手に心臓は全力疾走を始めるし近づいてくる顔から目を逸らすこともできなかった。思い返してみてもあのとき臨也さんの部屋で飲んでて正解だったと思う。今みたいに外だったらどんな目で見られたことか。
 だけど臨也さんは翌日にはきれいさっぱりそのことを忘れていた。僕のときめきを返せ、と言いそうになり慌てて口をつぐんだことを覚えている。ときめいてなんかいない、いや酔っ払った臨也さんにドキドキしてしまったのは本当だけど、そんなことを彼に知られてたまるか。
 そうして悶々と悩んでいる自分をごまかすためにも、二日酔いで頭を抱えている臨也さんの味噌汁が欲しいコールに答えてインスタントの味噌汁を買いに走ったのだ。
 インスタント? と不満そうな顔をしていたけど結局彼は全部たいらげた。ただ次からはインスタントは嫌だから作り方を覚えてね、と言われたが聞かなかったことにしておいた。味噌汁の歴史の薀蓄から始まり、最後には味噌汁なら毎日飲めるよね出汁のとりかたから覚えて作りなよだなんて横暴なことを言われて作る気になるほうがおかしい。自分で作るよりインスタントのほうがおいしいのだからそれでいいじゃないか。結局それから二日酔いの朝の度にインスタントの味噌汁を出しても不満そうな顔はするが大人しく飲んでいるんだし。
 彼は酔っ払うたびにこうやって甘い言葉を垂れ流し、翌日にはそれを忘れるというのを繰り返すのだから僕に耐性がつくのも当然だろう。自然受け答えだってマニュアルめいたものになったってしょうがない。

「はいはい、ありがとうございます。僕も臨也さんのこと嫌いじゃないですよ」

 たぶん女性を一発で落とせるであろう微笑にそう返す。男同士でこんな話はどうかとは思うが、周りは酔っ払いの戯言として流してくれるし、隅で会話する僕らのことなんか誰も気にとめない。バーテンダーだってオーダーしない限りこちらには近づいてこないし。
 いつもなら両思いだねぇと彼が爆笑しておしまいだ。両思いって、そもそもお互い想い合ってないとセックスなんてできないじゃないかと考えていたことが遠い昔のことのような気がしてくる。実際そう思っていたのは彼と関係を持った最初のころだけだ。今ではまぁ、気持ちよければいいんじゃないだろうか程度には感覚が麻痺してしまっている。人間は慣れる生き物だ。感情がないとわかっている行為に何かを求めるほど僕だって愚鈍ではない。
 愚鈍ではないが、うっすらと何か期待してしまっているのもまた事実だった。臨也さん相手にそれは無駄だとわかっているが、それでもと思ってしまう。自分は恋愛に夢見がちなのかもしれない。だったら相手をもっと選べばよかったのに。今更言っても遅いけどさ。
 そんな僕の決して見返ることがない期待は、こうやって彼が酔っ払ったときに出てくる薄っぺらな好意のようなものを表す言葉だけである程度満たされてしまうところもあるのだから救えない。
 そんな自分に呆れてしまうとため息を吐くとぽん、と後頭部が何かに叩かれた。横を見ると臨也さんが笑顔で僕の頭のほうに左手をやっていた。

「なんですか?」
「んー? 両想いなんだなぁと思って」

 ぽん、ぽん、と繰り返し僕の頭を叩くのは止めてもらいたい。手鞠じゃないんだから。そう不満を口にするより先に臨也さんの手は彼の目の前に移動していった。その左手の薬指にはシンプルながらも値の張りそうな指輪が光っている。それだけを見たら彼が既婚者だと勘違いするかもしれない。だけど彼を知る人間なら、彼のような人間と夫婦になるような女性はいないことをよくわかっている。
 その指輪はある日突然臨也さんが身につけるようになったものだ。両の人差し指につけていた指輪の代わりに、左手の薬指に光るプラチナの指輪。初めて見たときには驚きのあまり固まってしまったが、臨也さんが何でもないことのように

「この歳になると所帯もっているほうが信用度が上がるみたいなんだよねぇ、情報屋なんていう仕事でもさ。だから波江さんに偽装結婚しようって言ったのに却下されたから、とりあえず振りだけすることにした」

そう言っていたので僕は驚きを無理やり自分の中に押し込み、あぁ、そうなんですかとすぐに興味を隠した。
 彼の左手に光る指輪を見た瞬間僕の中に生まれた感情は、僕がいるのにどうして、という哀情ではなく暴発しそうな憤りだった。身体までつなげている関係の自分をないがしろにするなんて、と自己中心的な怒りに気づいたときに思ったのは、朱に交われば赤くなるんだなぁということだけだった。
 彼に対して所有欲や独占欲に似た何かはあるとは思うが、どうにもそれは世間一般でいうところの恋人同士に該当しないように思う。正直なところ、離れるための強い理由がないからずるずると関係を続けてしまっているんじゃないだろうか。
 彼が僕に飽きるか、僕が愛想をつかすこともあるのかもしれない。簡単なのは女性問題で、それは残念ながら僕にそう簡単に起こることでもなく、意外なことに臨也さんに女性の影は見えなかった(巧妙に隠しているのかもしれない)(隠さないといけないと思う程度には僕に気を遣っているんだろうかと思ってしまう)。
 片手では足りないほどの時間を過ごした中でも起こらなかったことが、これから先偶発的に起こる確率はどれくらいのものだろう。
 そんなことをぼんやり考えているとテーブルの上にあった僕の左手を唐突に臨也さんが握った。
 臨也さんは僕の右側にいるのでとるなら右手のほうがとりやすいだろうに、と思いながらも引っ張られるまま手を差し出す。繰り返し言うが酔っ払いに逆らったところで意味がないからだ。
 ふんふんと鼻歌を歌っている臨也さんは今日は何をするつもりだろうか。この間は手相を見てあげるとか言って散々人の手に文句をつけてくれたっけ。結婚線がないとか、運命線が分岐しすぎとか、感情線がおかしいとか。そんなの臨也さんの手だって似たようなものだろうに。見たことないし手相なんてわからないけど。
 それでも彼が何をするのかが少し楽しみな自分はいろいろと末期な気がする。何の末期って、そんなこと聞かれても困る。

「あの……臨也さん?」

 ぐにぐにと何度か僕の指を揉んだり撫でたりする臨也さんは何かを確認しているようだった。そんな酔った頭では意味がないだろうに、と思いながらもいつもより暖かい手が気持ちいい。もしかしたらマッサージでもしているんだろうか。彼が? だとしたらやっぱり酔っ払いのすることはよくわからない。
 もうこれは飽きるまで放っておこうと空いている方の手でグラスを掴み、中身に口をつける。氷で冷えたそれは冷たい。次は何を飲もうかと考えている僕の指に、ふと妙な感触がすべってきた。指というのも、僕の左手の薬指、に。

「…………」

 ふふふ、と満足そうに笑う臨也さんの目の前には無駄に高そうな指輪がはめられた僕の手があった。僕の手を撫でる彼の左手からは指輪はなくなっていて、それはつまり彼は僕の手に指輪を譲ったということで、と走り出す思考をとめるようにグラスの中身を一気に飲み干した。

「すみません。同じの、ダブルで」

 オーダーだけ告げてから今だ僕の手をもてあそんでいる彼の手から自分の手を取り戻す。臨也さんは特に抵抗することもなく、すぐに僕の手を放してくれた。

「知ってた? 俺と帝人君って指輪のサイズ一緒なんだよ」
「……そうですか」

 知らなかった、というか知りたくもなかった。
 少し筋ばっている手からのびる指は絶対に、僕より長い。だからパっと見は彼のほうが指が細く見えるのに同じサイズだったのか。身長は十センチ近く違うのに、指のサイズってそんな変わらないものなんだなぁと思いながらはめられた指輪をなぞる。
 今までずっと(とは言っても一年程度だけど)彼の左手にはまっていた指輪は傷がついたりして少し汚れていた。

「これ、」
「あげるよ」

 僕の言葉をさえぎるように臨也さんはそう言った。

「虫除けになるでしょ?」

 虫除け。どういった虫が僕に近づいてくると思っているんだろうか。どれだけ一緒にいても相変わらず彼の考えることはわからない。ただわかるのは、たぶんこの人はまた明日になったらこうやって僕に渡したことを忘れているんだろうなということだ。
 なんで俺の指輪を帝人君が持ってるの、それ高かったんだから返してよと平気で言ってくるに違いない。僕の脳内スクリーンに憮然とした表情とセットで思い浮かんだ。まるで僕が盗ったかのような言い分で苦情を言われるのは気に障る。
 だけど今これを返したところで絶対にこの酔っ払いは文句を言ってくるとわかっていた。まったく、面倒くさい。

「高い虫除けですね」
「そう? でもそれさぁ、俺と帝人君以外付けれないからいいじゃない」
「……はぁ?」

 ぺたりとカウンターにまた懐き始めた臨也さんは楽しそうに笑うだけでそれ以上は何も言わなかった。この人が酔っ払ったときの笑顔は嫌いじゃない。
 バーテンダーが出してきたグラスの中身を一気に半分ほど飲み下してしまったのは熱にうだる頭を少しでも冷ましたかったからだ。あまり彼に期待すべきじゃないとか、というかそもそも彼は他人の期待は裏切るものだと思っている節があることくらいわかっているだろうとか、いろんな言葉が頭をめぐる。でもどれも僕を冷静にはしてくれなかった。

「ねえ帝人君、お礼は?」
「はぁ……」

 おーれーいーと間延びした声で言う酔っ払いに、ありがとうございますと呟くと満足したらしい。
 お礼って言ったって明日の朝には返せって言うくせに、という恨み言は言わないでおいた。
 返したくないなら返さない方法を考えるべきだ。悲しいかな、どうにも僕はこれだけは酔っ払いの戯言だからと明日の朝になかったことにできないらしい。
 ちらりと横を見ると臨也さんの目はとろりと半分閉じかかっていた。酔うと眠くなるのはわかるけどここで寝られたら困る。人間一人を運ぶのって簡単じゃない。特に彼は細身なくせにわりと筋肉があるから重いのだ。

「ちょっと、ここで寝ないでください」
「わかってるってー……」

 すでに語尾が怪しいのに何がわかっているというのか。
 ため息を吐き、ハイスツールから降りて臨也さんに帰るように促す。これだけ酔っているなら今日のところは僕が出しておいたほうがいいかなと思ったのに、彼はパっと顔を上げると懐から財布を取り出した。

「帝人君、お願い」
「……はい」

 彼は僕の財布が心もとないことをよく知っているからこの態度だとは思うのだが、たまには僕がおごってもいいのに。左手のせいで浮き足だっていた僕の気持ちは彼の財布の中を見て吹き飛んだ。これだけ福沢諭吉が並んでいるなら今日の飲み代くらい痛くもかゆくもないだろう。
 財布の中身を支払いながらぼんやりと僕を待つ彼に目をやる。視線は窓の向こうだ。高層から見る夜景が素晴らしいという売りのここは高い場所が好きな彼の気に入りの店らしい。
 口元に手をやり小さくあくびを繰り返す様子を見るに、たぶん彼は明日の夕方まで目が覚めることはないだろう。自由業ってそういうところが融通が利いて羨ましい。なりたいとは思わないけど。それに明日は僕だって休みだし。とは言え彼が起きるまでにやることがある。
 さて、自分の口座に給料三か月分は入っていただろうか。
 彼の身につけていた指輪がシンプルなもので良かったとは思うが、シンプルであるがゆえに値段が張るものだったらどうしよう。そもそもこれを買ったのはどこかなんて僕にはわからない。……似たようなものでいいか。どっちにしろいつかはバレるだろうし。
 バレたときのためにできるだけうまい言い訳を用意しておこうと思いながら、中身を払い終えた財布を彼に返した。











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