転職する気はありませんが、(後)








 頭がわれるように痛い。ていうかわれる。たぶん一回くらいわれてもおかしくない。
 ベッドの上からのそのそと起き上がり、こめかみのあたりを押さえてみても痛みはやわらがない。当たり前だ。二日酔いがその程度で治るなら俺だって苦労しない。

「あたまいたー……」

 呟くとさらに頭痛がひどくなりそうだ。
 窓から差し込む陽の光はすでに低く、また夕方まで寝てしまっていたことがわかる。お酒飲むと毎回こうなるんだよね、っていうか帝人君と飲むと、だけど。
 あの子が二十歳になったときに初めて一緒に飲んだけど想像以上にうわばみだった。……いや、本人に言わせるとそこまで飲むのが好きではないらしいので酒豪か。いくら飲んでも酔えないので楽しくないらしい。そりゃあね、古来から酔っ払いの介抱は酔っていない人間の仕事だから、素面のままの帝人君は楽しくないだろうさ。でも俺だって決して弱くはないつもりだった。酒を飲む機会はこの仕事をしていればそこそこあるし(時に隣にやたらと秋波を垂れ流す女がいるときもある)酔って醜態をさらすなんてごめんだと、ずっと思っていた。
 だが一度あの子の前で泥酔してからは、まぁ、いいか別に、と開き直るようになったわけだ。あの子相手なら俺をどこか道に置き去りにしたり、財布だけ持って逃げるなんてことしないだろうしね。俺に対する優しさというよりはその後の報復が嫌だと思っているんだろうけど。

「帝人君が俺に優しくなんてするわけないもんねー……」

 俺があの子にしたことを考えれば当然だ。わかりきったことだし、すべてのネタを明かしたときのあの子の顔は見物だった。
 もしかしたら俺はこれから先一生他人を観察しても満足できないかもしれないと言いたくなるようなあの充足感。思い返すだけで顔が緩む。
 まぁ、満足できないかも、なんていうのは杞憂だったんだけどね。それには本当に心の底から安心した。ただどうにもそういった満足感に似た何かを覚えるのは帝人君に関連したことだけだけど。本当にあの子は俺を飽きさせない。普通あんなことをされたら俺の顔なんか見たくもないだろうに、なんで今も一緒にいるかはよくわらかない。そのうち寝首でもかく気なのかなぁと思ったけど、これだけ長いこと一緒にいるのにそんな素振りも見せない。

「変な子だよねぇ、ほんと……」

 ぽつりと呟いてもう一度ベッドに寝転がる。何気なくあげた左手には一年前からそこに位置するプラチナの細い指輪が光っていた。
 これを買ったのは酔った勢いとしか言えない。酒に、ではなく空気とか、雰囲気とか、そういうの?
 六月といえばジューンブライドで、この月に結婚する花嫁は幸せになる、なんていうのは海外での話だ。日本ではただじっとりとした梅雨の季節も国によってはいい気候の地域もあるらしい。そういった場所で結婚式をするなら幸せにもなれるだろうね。重ねて言うが、日本ではあまり意味がないというのが俺の持論だ。ついでに言うと昔からの腐れ縁でもある闇医者も似たような意見であったらしく、ようやく想い人(運び屋を人とカテゴライズしていいのか知らないけど)を花嫁に迎えるときもわざわざヨーロッパで式を挙げたくらいだからね。人の来ないような街外れの少し古めかしい教会でひっそりと行われた結婚式を俺は写真でしか知らない。新羅が二人だけでやりたいって言うんだから無理にいく必要もなかったし。
 そんなわけで一年前、その写真を見た俺はちょっと頭があれだった。そういう雰囲気に飲まれていた。ちょうど仕事先の相手に『ご結婚は考えていないんですか』と言いながらおせっかいを焼かれていたことが面倒だったということもある。
 結婚、結婚ねぇ。俺が誰か伴侶を持つなんてよくもまぁ想像できるもんだ。こんなめんどくさくて反吐が出るような楽しい仕事をしている相手を夫に、だなんてまともな思考を持った人間なら言わないだろうさ。そう、まともな思考を持った人間なら。
 こんな俺に付き合える人間と言えば数は限られていて、その中でも一際近くにいる相手なんていったら一人しかいない。自然と伴侶、という言葉にあの子が脳裏をよぎっても仕方ないことだろう。そんな自分の思考には笑ったが。だって相手は男だ。男相手に結婚も何もないだろ、ていうか同性婚なんて日本では認められていないし。海外でも両手の指でなんとか数えられるくらいの地域でしか認められていない。それくらいマイノリティだ。そんな少数派になることはちょっと非日常かもしれないけど、たぶん帝人君の望むものじゃないよなぁと思いながら指輪を買った。購入するときにあの子のことを思い浮かべようが、それは自分のためのものだったので俺にぴったりと合うサイズのものだ。薬指に指輪をつけると人差し指につけているものが少しバランスが悪く見えて外した。
 重さ的には軽くなったはずなのに、なんだか妙に左手が重く感じる。そのせいで頻繁に左手を気にする生活がしばらく続き、そんな俺にとんでもなく他人の動向に(いや、興味のないことに、だな)鈍いあの子でも気づくに決まっている。
 何ですか、それ、と聞いてきたあの子にはありのままを伝えた。隠し事をする間柄でもないからだ。それの応えはたった一言。

「ああ、そうなんですか」

 あっさりしたものだ。彼が十代のころならもうちょっと悲しそうな顔くらい見せてくれただろうに、そういった表情を作るのすら面倒だと思うくらい長い付き合いになってしまったのかもしれない。彼が簡単に顔色を変えないのはおもしろくないなと思うけど、無表情を装った向こうに透けて見える感情を想像するのは楽しい。
 たぶんこれが本物の婚約指輪だったとしても彼は悲しむより先に馬鹿にするなと怒るんだろうな。本当に、俺はあの子の何なんだろうね。……暇つぶし、がいいところかな。
 自分にとっての帝人君も、帝人君から見た俺もそんなところだろう。互いよりもおもしろい興味の対象が幸か不幸か現れないせいでこうやってずるずると付き合いを続けてしまっている。それが困るのかと問われれば俺の答えは否だ。あの子がどう思ってるは知らないけど。興味もないし。だって俺が楽しいんだからあの子が楽しくなくても付き合ってもらうさ。少なくとも、俺が飽きるまでは。
 飽きる傾向が一切見えないことについてはいいことなのか悪いことなのかということは考えないことにしよう。

「さて、と」

 腹筋の力だけで起き上がり、フローリングをぺたぺたと足音をたてながらリビングへと向かう。腹は減っているが、何か胃にいれるのも億劫だ、と思うのにちょこんとテーブルの上に置いてあるインスタントの味噌汁には顔が緩んだ。ついでに、そのテーブルすぐ近くのソファに座ってノートパソコンをいじっている存在にも。

「おはようございます。お早いお目覚めですね」
「うん、おはよう。……帝人君、会社は?」
「休みですよ。そうじゃなきゃ臨也さんと飲みになんか行きません」

 夕方まで寝ていたことをあてこするような嫌味なんて今更だ。帝人君と飲みに行くと毎回起きたときにこの子がいる。ときどき全裸でぐっすり寝ていることもあるが、たいていはこんな感じにパソコンで時間をつぶしている姿だ。
 この子に言わせると俺は酔っ払うと絡み酒になるらしい。この子の前以外で自分を見失うほど酔うことがないのでそれを聞いたときは、そうか俺は酔うとそうなるのかという感想しか出てこなかった。だって俺はそんなこと一つも覚えていない。覚えていないことを責められても困るし、なんだかんだ言いながらもこうやって俺と飲みに行くんだから帝人君だってそこまで迷惑していないんだろう。もしかしたらなかなか見れない俺の醜態を楽しみにしているのかもしれない。それはちょっと性格悪いと思うけど、俺が素面のときにその醜態を嗤うようなこともないのでこちらからは話を出すことも無い。自分に噛み付く蛇がいる藪をわざわざつつく趣味なんか俺にはないからね。他人を噛むならやるけど。

「どこか出かけてたの?」

 パソコンを持つ帝人君の姿はスーツだ。それも昨日からずっと着てたようなよれっとしたものではなく、クリーニングから出したばかりのようにピシッとしている。そんな格好だから俺だって会社だったのかと聞いたのに、帝人君は相変わらずパソコンに目を向けたまま、ええ、まぁと呟いた。

「ちょっと買い物に行ってました」

 まさかインスタント味噌汁を買いに行くために着替えたの? と聞くよりも先に気がついた。
 カタカタとノートパソコンのキーボードを叩く左手の、薬指の上で光る存在に。シンプルなデザインの指輪は俺が今つけているものとよく似ている。

「…………」

 それを見ても、ふぅん、と思っただけだ。俺のようにカモフラージュなのか、それともいつの間にか結婚を考えるような相手でもできたのか。前者だったら帝人君そんなことが必要なくらいモテるの? と言いたいし(ある特殊な層にはモテる子だけどさ)後者ならどんな相手なのか気になる。それって君の好奇心を満たしてくれるような女なのかなぁとか、それとも上司に押し切られて仕方なくだったりする? とか。いまどきそんなこと中々ないとは思うけどさ。どんな理由にせよ、俺以上に君を楽しませる存在って中々見つからないと思うんだよね。
 そんなことを思いながらテーブルの上のインスタント味噌汁を手に取りキッチンへ向かう。明かりをつけ、ケトルに水をいれて火にかけ、たところで妙なことに気がついた。
 さっき見たときはあまり明るくない室内だったから気がつかなかったが、俺がつけてる指輪がなんだかおかしい。妙にきらきらしているように見える。眉間に皺を寄せながらじっくりと見てみると、あったはずの細かい傷すら消えているように思えた。首を傾げながら薬指から指輪を引き抜く。もしこれが俺のものだったら、内側にちょっとあれなメッセージが……。

「あれ」

 わざと大きな声を出してやった。リビングにいるあの子に聞こえるように、だ。案の定あの子の身体がぴくんとわずかに揺れた。でもそれだけで、こちらに振り返ることもなくパソコンとランデブー中だ。しょうがないのでこちらからソファのほうに向かい、隣に腰を降ろす。

「……なんですか」

 しばらくは無言だったが、じっと見つめる俺の視線に堪えかねたように帝人君は声を出した。それに、あのさぁ、と言いながら(自分でもどうかと思うくらいの猫撫で声だった)キーボードを叩く左手を指差した。正確には、俺が持っていたはずの指輪と似たようなデザインをはめている薬指を。

「それ、どうしたの?」
「……買ったんです」

 給料三か月分で、と返す声は淡々としている。頬だって別に赤くなっていないし、パソコンを見つめる目だって相変わらずモニター内の文字を追いかけている。だけどタイピングが少しだけ遅くなった。

「へえ、買ったにしてはあんまりきれいじゃないね?」
「そうですね」
「プラチナって手入れがわりと面倒らしいよ」
「そうですね」
「中性洗剤で洗うんだってね」
「そうですね」
「馬の尻尾で作ったブラシで丁寧に汚れを落とすとか」
「そうですね」
「専用のクロスもあるらしいよ」

 そうですね、と昼にやってる某長寿番組のような返ししかしてこない帝人君をどうしてやろうか、と考えている自分の顔があまりよろしくない笑みを浮かべている自覚はあった。あったが俺の顔はもともとこんなだし、と開き直ることにする。

「ねぇ、帝人君」
「…………なん、ですか」

 ことさら甘く響くような声を出しながら彼の左手を握る。特に抵抗もされず俺は彼の左手を握ったまま目の高さまで持ち上げることができた。相変わらず俺と目を合わせようとはしない帝人君の薬指に唇を押し付ける。俺が掴んでいる手に不自然な力がこもった。

「この指輪、内側見た?」
「は……?」
「内側」

 同じ言葉を繰り返すと帝人君は、はぁ、とため息を吐いてから俺の手から自分の手を取り戻し指輪を外した。それからまじまじと内側を見つめた後により眉間の皺を濃くした。

「何ですか、これ……」

 指輪の内側にはI to Mなんていう文字が刻まれているはずだ。店で買ったときに店員が今ならキャンペーン中で、とくどいくらいに薦めるのでそのとき頭にあったこの子のイニシャルをいれてもらった。深い意味なんかない。でもそれは俺の指にその指輪がハマっている状態だったら、という言葉が付く。
 この子の薬指を重くするためならそれに意味を与えてやってもかまわない。

「なんだろうねぇ」

 帝人君の反応が楽しくて声は多分に笑みが混じったものになる。彼は一度目をぎゅ、と強く瞑った後無言で指輪を元に戻した。
 その後は何もなかったかのようにまたパソコンをいじるので、こらきれずにこちらかから水を傾けてやる。

「何か言うことないの?」
「何をですか?」

 質問に質問で返すのは好きじゃないなぁ、と思いながらもいつの間にか二日酔いの苦しみがどこかに行っていた俺は、これ見よがしに薬指を掲げてやった。よくある結婚指輪のCMのように、だ。
 それを胡乱気な目で見た後に帝人君は深い深いため息をつく。

「何か言ってほしいんですか?」
「……そういう聞き方する?」

 言ってほしいというより、目が覚めたらこの状態だったんだから帝人君から何か言うべきじゃないかな。

「酔った勢いでしかくどけない人に言うことなんかありません」

 あれ、と思った。この子のこの言い方だと、もしかして俺が先にこの子に指輪をあげちゃったんだろうか。
 思い出そうとしても昨晩の記憶はあやふやだ。そんな俺の心中を見透かしたように帝人君は鼻で笑った。あ、その顔ちょっとむかつく。

「薬缶。鳴ってますよ」

 ケトルの音が鳴り響いている。味噌汁を飲むためにわかしていたそれのためにキッチンに向かい、火をとめた。インスタントの味噌汁に湯をそそぐとふわりといい香りが立ち込める。それは二日酔いの身体にじわりと染みた。
 もうこの話は終わりとばかりにまたパソコンを操作している彼の後姿は少しふてているように見える。そういえばあの子ってまだ四捨五入したら二十歳なんだよなぁ、と思うと、少しだけ年上として譲歩してやろうという気になれた。

「ねーえ」
「なんですか?」

 拗ねていても律儀に返事をするあたりがあの子らしいよねぇ、とあがる口角はそのままに前々から思っていたことを口にしてやった。

「毎日味噌汁をつくってほしいってさ、プロポーズの言葉に使われるって知ってた?」

 がしゃん、と音がする。どうやらノートパソコンを膝の上から落としたらしい。
 そんな仕草すら俺を楽しませる自覚はあの子にあるんだろうか。あるわけないか、と思いながら首まで真っ赤になっている帝人君がなんと言うのかと心待ちにしながら、インスタントの味噌汁に口をつけた。











終わり