Please treat well softly サンプル01
『僕に臨也さんの時間を売ってください』
そんな奇妙な電話がかかってきたのは、よく晴れた冬の午後のことだった。沈む陽と、それに反比例するように自己主張するネオンは、新宿にいても池袋にいても高い場所から見下ろすのであればそう変わりはない。
当然だけど夏に比べれば夜の時間が長いこの季節はあまり好きじゃない。理由は単純に寒いからだ。自身のトレードマークともいえる黒いコートが外出にかかせないのは別にこの季節に限ったことではないけれど、あまり着ぶくれしないように、なおかつ寒さを感じないような服装っていうのは地味に考えるのが面倒くさい。あまり着込みたくないのは動きを鈍らせたくないからで、それの最たる理由である化け物の顔を一瞬でも思い浮かべてしまったことにため息を吐きたくなる。好きこのんで思い浮かべるようなもんじゃないよ、まったく。
売ってくれ、と震える声で言われた言葉に少し考え込みながら、新宿の事務所からわざわざ持ってきた椅子に身を預ける。どこにいたって俺が情報屋をやることには変わりなく、その反吐が出る楽しい仕事にはパソコン操作が欠かせない。長時間座っても苦にならない椅子ってそう簡単には見つからないんだよね。そうなると自然パソコンとこの椅子だけは事務所を移転する度に持ち歩くことになる。背もたれにもたれかかると俺の身体をちょうどよく包み込むこれに座ったまま気づけば朝だった、なんてことが数え切れないくらいあった程度には座り心地がいい。
臨也さん? と沈黙している俺に不審そうな声がかかり、それに聞こえてるよ、と返事をしながら浮かんだ疑問をそのまま口にした。
「俺の時間ってことだけど、帝人君が望んでるのは新宿の情報屋の時間なのかな?」
椅子から身体を起こさないまま目の前のパソコンを操作し電話の相手の情報を表示させた。
竜ヶ峰帝人、高校二年生、池袋在住、といった特に調べなくても簡単にわかるものから、ダラーズの創始者だという表に出てこないものまで。
ときどきこの子に情報を売っているから電話がかかってくること自体はそう珍しいことじゃない。だけどいきなりこんなことを言われるとは思ってなかった。
一体どういった理由でこんなことを言い出したのか。俺にダラーズの情報をよそに売られないように、という配慮のつもりかな。でもそんなの今更だと思う。それに売るなと言われても、そんなことしたら情報屋じゃないだろ、とは言わずに言葉を続けた。
「知らない仲ってわけじゃないし、君が生活費を自分で稼いでることは知ってるから多少の割引はしてあげるけど、俺は安くないよ」
言外に、いくらネットビジネスで多少稼いでるとはいえ一介の高校生が買える値段ではないと告げてやる。俺と専属契約したいって言ってくる人間って決して少なくはないんだよね。もしかしてこの子もそうしたいんだろうか。
情報なんて流動的なものを扱っている相手をつなぎ止めようなんて土台無理な話だと思うんだけどと思考を巡らせる俺に、帝人君は言葉を選ぶように、あの、と呟いた。
『違います……情報屋の折原さんじゃなくて、その、臨也さんの時間を、という意味なんですけども』
「……俺の?」
はい、あなたの、と返ってきた言葉にパソコンを操作していた手を止めた。
てっきり何か俺を、というよりも、ダラーズに関する情報を止めておきたいのか、はたまた有益な情報を一定期間もらいたいがための交渉だと思っていたから、一体何をやらかすつもりなのかと情報を見直そうとしていただけに言われた意味が一瞬わからなかった。
『変なお願いですみません、でも、臨也さんに何か害を加えようとかそういったつもりはないんです』
そう言い募る言葉に嘘の色は見えない。とは言っても、この子が俺に何かしようとしたところで痛手を与えられるほどのことができるとは思わないけどさ。帝人君って腕力はそんなにないし、従えているブルースクウェアの面々の中にも喧嘩が強い子は何人かいるみたいだけど、その子達に俺の相手をさせようと言うのならわざわざこんな風に俺に電話したりせずに不意打ちを狙ったほうが確実だ。それでもあまり負ける気はしないけどさ。
帝人君はなにやら色々と電話の向こうで、俺が忙しいであろうこととか、自分が学校に行っている間は自由にしてもらってていいだとか、俺に無理をさせるつもりはないのだと言っているけど一番重要なことを口にしない。
『ダメ、でしょうか……』
ずっと黙っている俺に不安を覚えたのか帝人君は、もし目の前にいたら尻尾や耳をしょげさせている子犬のような風体を見せたんじゃないだろうかというような声音で問いかけてきた。それに意図的に小さく笑い声で返してやる。
「駄目っていうわけじゃないんだけどさ。……帝人君は俺の時間を買ってどうしたいの?」
俺が被るデメリットの少なさは説明してくれてるけど、この子が得るメリットがまったく見えなかった。
情報以外でこの子が俺の手を求めてくる必要性はまったくない。年も育った環境も価値観もまったく違う、ダラーズがなければきっと一生接点を持つことがなかった相手に突然時間を売れ、と言われても困る。
言い換えれば理由さえ言ってもらえれば別に引き受けても構わないかなと思う程度にはこの子を信用してもいるんだよね。限りなく軽視に近い信用だけどさ。この子程度の力で俺がどうにかなるなんて思えないし、それならまぁ、適当に相手してやってもいいかななんて思えるのは、今は立て込んだ仕事が入っていないからだ。
どんな理由があるのかわからないが、興を削ぐようなものではないことを願いたい。俺が楽しめそうなことをぜひ言ってもらいたいなと思っているとに数秒の沈黙が耳に入った。
『……一緒に過ごしたいんです』
「…………は?」
え、何だよそれ。一緒に過ごすって、俺と君が? 何で、と疑問が頭の中をめぐる。俺がそんな態度をとることはわかっていたのだろう帝人君がふ、と息を吐く音が聞こえた。
『詳しい理由は言っても言わなくても変わらないんです。いえ、たぶん言ったほうが臨也さんの迷惑になると思います』
「…………」
俺に迷惑、ねぇ……言い分は殊勝だが、どこまで本気でそう思ってるのかなんてわからない。迷惑をかけたくないっていうのなら、そもそもこんな奇妙な商談を持ちかけてこないだろう、普通。
「ねぇ、帝人君」
唇を人差し指で撫でながらゆったりと相手の名前を呼ぶと、はい、と落ち着いた返事が聞こえた。
「一緒にいるっていうそれくらいなら別に、わざわざお金を払ってもらわなくてもしてあげるけど?」
『…………』
俺の言葉に今度は帝人君が口をつぐんだ。
言った言葉は嘘じゃない。共通の話題なんてダラーズのことくらいしかないけどこの子の会話の相手になるくらいは別に、ね。有意義な人間観察の一貫として過ごさせてもらおうじゃないか。
会話したり食事を一緒にする程度なら付き合ってやっても構わないのにと思う俺に帝人君は、それじゃあダメなんですと言った。
「どういう意味?」
『僕があなたの時間を買っている間は僕に逆らわないでもらいたいんです。……あの、臨也さんに何かひどいことをしようっていうつもりはさっきも言いましたけど、ないんですよ? ただ僕の都合で振り回してしまうと思いますし、できるだけ臨也さんにはそれに従ってもらいたいんです。もちろんどうしても無理なことや、嫌なことはそう言ってもらえれば諦めますけど』
「ふうん……」
帝人君の言葉に自然と口の端が持ち上がる。なるほどね、一体俺に何をさせようとしてるのかはよくわからないけど、結局この子が言いたいのはバイト代を出すから言うことを聞けということらしい。
「人をお金で買うっていうその発想はどうかと思うよ?」
この子が持っているであろう良心にそう問いかけると、苦笑が返ってきた。
『わかってます。でも臨也さん相手だったら、変にまわりくどいことするよりこっちのほうが確実だと思って』
その言葉にくるりと俺は座っている椅子を回した。この子との付き合いは実際会って会話をするようになったときよりも、チャットで話していたときのほうが長い。思えば年単位で週に何度も話していたことになる。だからなのか、俺の人間性をほどほどに理解しているらしい。
確かにお為ごかしのような言葉で俺に頼み事をするより、肝心なところを隠して言葉を重ねている今のこの状況の方が俺の興味はそそられる。
「帝人君はさ、いくら出すつもりだったの?」
『いくらって……はい?』
「だから君の予算はいくらなのかって聞いてるんだよ」
くすくすと笑い声を隠しもせずに尋ねた俺に帝人君は少し黙った後に、おそるおそるという風に金額を提示してきた。なるほどね、この子にとっては家賃半年分のその金額を貯めるのはさぞ面倒がかかったことだろう。ブルースクウェアの面々と粛正とやらもしていたことだろうし、そう暇があったわけでもないだろうに。もしかして貯め込んでいた貯金までつぎ込むつもりなんだろうか。きっと新しいパソコンでも買うつもりだったんだろうなと思うと自然と笑みが深くなる。
自分が欲しいものを諦めてまで俺の時間を買いたがっているこの子の思惑に付き合って暇つぶしをするのもおもしろそうだ。
「三日、かな」
パソコン画面にスケジュールを表示させ、この遊びに付き合っても支障のなさそうな期間を提示すると帝人君は驚いたような声をあげた。
『三日ですか』
「そう、不満?」
『いいえ、十分ですむしろそんなに付き合ってもらえるとは思いませんでした』
正直に告げられた声に苦笑いが浮かぶ。この子は一体俺がどれだけふっかけてくると思っていたんだろうか。むしろ、この年頃の子にしては大金である金額を提示してもたったそれだけしか時間をくれないのかと詰られるかと思ったのに(そんなことを言えばやめるつもりだったけど)。
「それじゃあ交渉成立だ。さて、いつから俺は君に時間を売れば良い? 丸三日を所望するのなら、今日の深夜零時からあたりかな?」
『いいえ、今からでお願いします。今から……明後日の、深夜零時まで』
その言葉におや、と片眉を上げた。そうなると実質俺がこの子に売るのは二日と半日にも満たない時間になる。
『僕が学校にいる間は臨也さんの自由にしてもらいますし、深夜だと僕は家にいますから売ってもらっても意味がないと思うんです。それに』
相手の時間を買ったんだから零時に自分の家に来い、と呼び出すこともできるだろうに、それを言い出さないのは俺に無茶を強いるつもりはないという最初の言葉にかかるんだろう。何をさせられるかはわからないけど、この様子ならほどほどに楽しみながら三日間を過ごせそうだ。そう思った俺の耳にインターフォンの音が響いた。
携帯を耳にしたまま来訪者を確認する。このマンションはオートロックタイプだから画面に現れたのはエントランスだ。
カメラの向こう側には苦笑を浮かべた幼い顔があった。
『実はもう、臨也さんの家の前まで来ちゃってたんです』
携帯とインターフォンからサラウンドで聞こえた声に呆気にとられたのはほんの一瞬で、次の瞬間には笑い出したくなった。ああ、そうか、そういえばこの子は一番最初に、「売ってくれませんか」ではなく「売ってください」と言っていたっけ。その言葉から俺に断らせるつもりはなかったことがわかる。どうやら俺はまんまと策略にハマったらしい。だけどそれに不快感がないのは画面の向こう側に見える童顔が申し訳なさそうに見えるからだ。
池袋に越してきたことも住所を教えたこともないけれど、それくらいの情報はこの子の手腕があればすぐに調べがつくだろう。
モニターの向こうにいる帝人君から俺の顔が見えないから、きっとさぞや不安な気持ちにかられているに違いない。その顔を見ながらパネルを操作し、上がっておいで、と声をかけるた。開いたドアにパっと嬉しそうな顔をしたのが解像度のあまりよろしくないカメラ越しにもわかり、俺は笑い声をこらえるのに苦心することになった。