獏
折原臨也の事務所が実は複数ある、ということを知っている人間は以外に少ない。
それは現在自分たちがいる場所を露骨に、まるで自宅であるかのように装い、人を招くときもここにしか呼ばないし、概ねいつもここにしかいないからだ。
新宿のタワーマンションなどという家賃の値段なら日本国内で上から数えたほうが早いだろうと立地。室内は色調を抑え、壁面に沿うようにある本棚に埋まっているのは分厚い本の数々。階段を上がれば資料の山。
いかにも”有能な情報屋”という記号を表していることはもちろん客をもてなすためにあるソファも上等なものだ。座るとほどよく体重を受け止めてくれるがずるずると沈むことはない。
そんな場所に正臣は臨也と向かい合うようにして座っていた。
本来臨也が来客のために用意しているこのスペースは真正面に座ることがないように、ソファを九十度の角度で置かれている。以前人間が警戒心を解くにはその角度が一番いいと聞いたことがある。隣同士では近すぎるし、対面では威圧されているように感じる心理があるのだと。
それがわかっている上であえて臨也は自分で椅子を持ってきてまで自分の真正面に座った、と正臣は感じていた。いや、単なるこの場にいるもう一人と九十度の角度で座るためかもしれないが。
「君たちがわざわざここに来るとは思わなかったよ」
座ってから初めて口を開いたのは予想通り臨也だった。口八丁で相手を丸め込むのなら、最初から自分が主導権を握っているほうが利巧なやり方だろう。
「二人別々に、じゃなくて一緒に来たということは、仲直りができたのかな?」
表面だけ見れば臨也が浮かべている表情は笑顔だった。親しささえ感じるほどの笑みに反吐が出そうだと思うのはいつものことなのでその感情を無視して口を開く。
「原因を作った張本人であるあんたには、俺達がどういう結論を出したかすら知っているんでしょう」
正臣の怒気を孕んだ口調に臨也は肩を竦め、いくら俺が無敵で素敵な情報屋さんだからって君達のことまでわかるわけないでしょう、と白々しく述べた。ひくりと正臣のこめかみが引きつる。
「俺だって暇じゃないからさぁ、ただの高校生の君達をずっと見守ってあげるわけにはいかないんだよ?」
「……俺達がただの高校生じゃないことくらいあんたが一番よくわかっているはずだ」
「ん? 嫌だな、何? 自分達は特別だって言いたいの? あはは、いいねぇ、若いって! 自分はこの世界に選ばれた人間だと錯覚できるその自負心ってどこから来るのか知りたいよ」
いつの間にか正臣は自分がぐっと手を握りこんでいることに気づいた。落ち着け、この人の神経を逆撫でする物言いには慣れたはずだ。伊達に一年近くこの人の下で働いていたわけじゃない。
「特別だとは思ってません。だけど、あんたが玩具にするには手ごろな駒ではあったんじゃないすかね」
「手ごろな駒、ねぇ」
ちらりと臨也は正臣ではないもう一人の方へ視線をやった。当の見られた本人はどこか困ったように正臣と臨也の方を見ているだけだ。そのどこか純朴さのようなものを感じさせる仕草は自分のよく知るもので、知らず握っていた手の力が抜ける。池袋に来たときから、いやその前からよく知っている相手はある種自分のトランキライザーなのかもしれない。そんなことを考えた自分に苦笑が勝手に浮かんでしまう。
「俺はただ君達が行きたい場所を俺が知っている限りの情報で行きやすくしてあげただけだけど?」
「俺達が行きたい場所じゃなくて、あんたの都合のいい場所に訂正したほうがいいですよ」
「おもしろいこと言うねぇ、紀田くんは! それじゃあ何? 紀田くんは人に言われたことを鵜呑みにしてほいほいその人に付いて行っちゃうような考え無しなんだ?」
「……そんなこと誰も言ってないでしょう」
「だよねぇ。自分で考えて、自分で下した結論だ。それを他人のせいにするなんて無責任にもほどがある。紀田君がそんな頭の悪いことをするわけないと信じてるよ」
信じてるなどという臨也の口から出るにはこれほど違和感のある言葉もないだろう。落ち着きかけていた激情が再び腹の中で暴れまわる。
「……っ、人の考えに横槍いれて引っ掻き回してたのはあんただろ! だいた____」
反論しようとしていた正臣の口を塞いだのは、その場にはそぐわないほど能天気な携帯の電子音だった。
「あ……ごめん、僕のだ」
「……帝人ぉ」
気を殺がれてヘナヘナと萎れた植物のように顔をうなだらせた正臣に、ちょうど二人と直角になるように、質のいいソファに座っていた帝人が制服のポケットから携帯を取り出した。
「お前、お前なぁ、今俺達が何しに来てるのかわかってるのか?」
「だからごめんって。僕にかまわず続けてよ」
どうやらメールを受信したらしく慣れた手つきで何事かを操作している幼馴染に正臣はきっと鋭い視線を向けた。もちろん対面に座っている人物相手には決して宿ることのなかった親しみを込めたものだ。
「ごめんじゃありません! 真剣な話をしているのに携帯を取り出すとは何事だ? 電源切っとけよ、てかせめてマナーモードにしとけよ!」
「僕もまさか鳴るとは思わなかったんだよ」
マナーモードにしたつもりだったんだけどなぁと首をかしげながらも手が止まることはない。どうやら返信を打っているようだ。その仕草を見ながらぺしぺしと正臣はソファを平手で叩いた。
「何暢気なこと言ってるんだ! ていうか俺らが何しに来たのかわかってんのか? わかってるなら俺が来る前に言っていた言葉を、ほらさんはい! リピートしてみろ! 壊れた蓄音機のように!」
「ええ……何その例え。もっとわかりやすく言ってよ」
胡乱な目で見つめる帝人に例えなんぞどうでもいいと正臣は返す。
「もう……僕や園原さんがバラバラになった原因は臨也さんのせいで、それをやった原因が臨也さん特有のぼっち寂しい病のせいで、それを人間観察なんていう言葉でオブラートに包んで自分の保身を図りつつ暗躍していた臨也さんにここぞとばかりに復活した友情パワーを見せ付けて嘲笑ってやろうぜっていうコンセプトでしょう?」
「待って、待って待って帝人君」
「あ、誤解しないでくださいね! これ正臣が言ったことで、僕はさすがに言いすぎじゃないかなって一応フォローはしたんですけど」
「臨也さん相手に言い過ぎて悪いことなど何もない」
「って正臣が言うので」
「…………」
斜め下あたりを見ながら、ぼっち寂しい病って別に患ってないし、そもそも俺には一緒に鍋をする相手だってちゃんといるわけで、と独り言のように呟く声に正臣は疑問を投げかけた。
「いくら払って一緒に鍋してもらったんですか?」
「違うから。何なの紀田君、どういう目で俺を見ているの。……あ、いい言わなくていい」
目元あたりを押さえながらストップ、と言うように差し出された手には特にかまうことなく帝人の方へ目をやるとまた何か操作をしていた。その仕草にはぁ、と露骨なため息を吐く。
帝人の隣に戻ってこれてから三日ほど経つ。携帯を気にすることが多いなと思っていたが、こんなときにまで見るものだろうか。それって依存症ってやつじゃないのかと思いながらも、そもそも自分が離れる前にはここまで携帯を触ることはなかったので、仮に依存症になっていたとしたらその原因の一端は自分にもあることになる。
戻ってきたときには杏里にも帝人にも懇々と怒られた。今までどうしていたのかだとか、連絡もとれないなんてと潤んだ目で二人に言われたときには不謹慎にも自分の居場所はここにもあるのだと言葉だけではなく態度でも表されたことがうれしくてたまらなかった。
だからもし、帝人が携帯依存だと言うのならそれを時間をかけてでも治してやろうという心意気が正臣にはあった。ダラーズの創始者だと、まだ帝人本人からは聞いていないが確かな情報網から聞いていたので(情報の正確性だけなら臨也のことは信用できる)携帯を頻繁に触る原因はまずそこにあるのではないかと思ったのだ。
だったらまず、そのダラーズを使って蠢く害虫のような(帝人に言うと失礼だといわれるだろうが)折原臨也と縁を切らせようと正臣は考えた。ダラーズを使ってとは言ったが、実際に臨也が何をしようとしているかなんてことは正臣にはわからない。ただ無色透明だったはずのダラーズが変質していくスピードが速すぎた裏には絶対に臨也が絡んでいるはずだという確信があった。
帝人に連絡をとるな、と言うのは容易い。だが帝人からコンタクトをとらなくても臨也から近づいてくるのであれば、この人のいい幼馴染は簡単にとらわれてしまうだろうという懸念が正臣の中にはあった。かつての自分がそうだったように。
だから臨也のところへ、自分達をいくら引き離したところで意味が無いと、だからもう帝人には近づくなと牽制をしに来たというのに当の幼馴染はまるで部外者かのように振舞う始末。
帝人のことだからことの臨也さんがどれだけ危険かまだわかっていないんだろうけどな、臨也さん帝人にはまだいい顔だけ見せてるみたいだし、と心中で呟きながらようやくいまだ携帯の操作をしている帝人の名前を呼ぶ。
「おい、帝人。俺達の友情パワーを見せ付けるだけじゃなくて、俺は重要なことも言っただろ」
「え? あ、ちょっと待って」
「待ちません!」
催促するように再度ソファを手のひらで叩くと、あからさまに面倒くさい、と言うように眉間に皺を寄せた帝人は携帯画面を見つめたまま口を開いた。
「臨也さんと縁切り宣言しろって言ってたっけ」
「そう、それが今回のメインテーマなんだよ!」
なのにお前はおろおろするか携帯を見るかだけってどういうことだそれ! と騒ぐ正臣の耳に、へぇ、と低い声が届いた。
「俺と帝人君を引き離したいの?」
その声ににじむのは怒りや驚きといったものではなく、ただひたすら愉快だと楽しむ余裕だった。先ほどまで鍋がどうだと言っていたはずなのに、ちゃんと帝人と正臣の話は聞いていたらしい。
「ええ、そうですよ。あんたと一緒にいても百害あって一利無しじゃないですか」
「ひどいなぁ、紀田君は! あんなにいろいろ情報あげたことも忘れるのかい?」
すぅっと正臣の目に険が宿る。それすらも臨也は笑って受け流した。
「紀田君にとっては百害であっても、帝人君にとってはそうじゃないと思うけど。少なくとも俺は帝人君がほしい情報を的確に提供できるし、いきなり消えたりなんかしないからね」
嫌味だ、と正臣は感じたがすぐにそれを撤回する。折原臨也が嫌味を言うことはない。ただただ口の端に上るのは相手の本心を引き出すための台詞に過ぎない。それがわかっていても、わざわざ傷口に塩を塗り込められたら痛みは感じるものだ。
「……帝人」
確かに利便性が高いのは臨也だろう。自分にはないパイプを何本も持っていて、余裕もお金もある人間だ。だが正臣にだって武器はある。
「お前、杏里に告白したのか?」
「は?! な、何?! いきなりここで園原さんが出てくるってどういう流れ?!」
音がしそうな勢いであげた顔は真っ赤になっていた。ぱくぱくと何か言いたくても言えない魚のような仕草にぶっと噴出してしまう。こんなところは昔と変わっていない。
「いや、帝人が臨也さんとは縁切らないだろうってこの人が言うからさ」
「それと園原さんとどう関係があるの?」
帝人の握力が強ければ手の内の携帯は変形していたんじゃないだろうかというくらい携帯を握る手はぷるぷると振るえ、力が入っていることで白くなっていた。
「いいか、帝人。よく聞け。まずお前が杏里を嫁にするだろ?」
「はぁ?! よよよよ嫁、よめぇ?!」
素っ頓狂な声をあげる想像通りの幼馴染の仕草にうんうん、と頷きながら何か言おうとする帝人にピっと人差し指を向けた。
「で、杏里を嫁にした帝人を俺が嫁にする」
「え……はぁ?」
一転して帝人の表情が変わる。なんかもう突っ込むのも嫌なんだけど、と言いかねないその顔に人差し指を左右に振りながら高らかに正臣は演説を続けた。
「いいか? 帝人。お前のやってることは無謀だ。むちゃくちゃだ。だがな、そういうのは守るべきものができたら変わるんだ。守って守られて人間成長するんだよ。お前が杏里を守って、俺がお前を守ってやる。嫁を守るのは当然だからな!」
パチパチと瞬きを繰り返す帝人が何か言うよりも早く、会話に笑みを含んだ声が入ってきた。
「沙樹ちゃんはどうするんだい、紀田君?」
「大丈夫です。俺が沙樹の嫁になりますから」
「え、サキって誰?」
「今度紹介してやる。杏里がエロかわいいなら沙樹は小悪魔キューティーって感じだ! そしてそんな沙樹を杏里が嫁にすれば大団円!」
「エロはないよ、エロは!」
いつもの突っ込みをいれてくる帝人に正臣は一人納得したように頷いた。
折原臨也という情報網はダラーズの創始者にとっては簡単には手放せないものだろう。それならダラーズの創始者ではなく、ただの高校生になればいい。奥手で、面倒見の悪くない委員長になればヤクザまがいのことをしている人間にだって近づかなくなるはずだ。嫁は言いすぎかもしれないが、高校生らしい青春を満喫しろと正臣は言いたかった。
「で、その紀田君を養っているのが俺ってなるわけだ?」
割り込んできた声のほうに視線をやると、良くない笑みを浮かべた臨也と目が合う。
「人間関係というのは実に複雑にかつおもしろくできているものだ。帝人君に離れろって再三注意する君は俺の下で働かないと生活ができないんだよねぇ」
高校中退の身じゃ仕事は限られるもんね? と囁くその顔は変わらず笑みを浮かべている。嘲笑と表現できるその顔に正臣が何か言おうとするのをさえぎるように帝人が口を開いた。
「ねぇ、もしかしてそれ正臣か臨也さんかどっちか選べって言ってる?」
「……う」
端的に言えばそういうことになる。正臣たちと若者らしい青春を謳歌するか、ダラーズの創始者となるか。その二つが共存できないことは誰の目から見ても明らかだ。
「正臣のたとえとか表現って本当にわかりにくいんだけど」
「点数に√を持ち出すようなやつには言われたくない」
「そうだけどさ、そもそもそんなこと聞くこと自体おかしいと思わないの?」
正臣と臨也さんのどちらかなんて選べるはずがないだろ、と正臣は言われると思っていた。だが日常と非日常のどちらも捨てられるものじゃないと、携帯をいじりながらあきれた声で言うのを聞きたくなかった。
だから帝人が結論を言うよりも早く、何か言わないと、と思う正臣の目の前で帝人は立ち上がると何も言わずに移動した。
ぽすん、と正臣の隣が沈む。
「正臣と臨也さんかどっちかなんて言われても、こっちを選ぶに決まってるだろ」
「み……帝人」
あきれたようにため息をつきながらも、少し耳元が赤くなっているように感じるのはきっと気のせいじゃない。
「そう、だよな……帝人なら、俺を、」
こっちを選んでくれるはずだよなと心のそこから安堵した正臣の目の前で帝人は苦笑した。
隣へではなく、対面に座る男に向かって。
「ということなので、臨也さん。これからは正臣にバレないようにやりとりさせてください」
「みかどぉぉぉぉ!」
安堵した分、しれっと言ってのけた帝人の言い分に表現しがたいショックを受けた。昔やっていた某八時のバラエティー番組のように頭にタライが降ってきたくらいの衝撃を、正臣は帝人の名前を叫ぶことで相手に伝えようとした。帝人の首根っこを掴み前後にがくがくと揺する。
「なんで、どうしてそうなるんだ! お前は俺を選んだはずだろっ?!」
「え、うん。臨也さんと正臣だったらどう考えても、劣勢な正臣側につくよね?」
これが判官贔屓ってやつなのかな? と小首をかしげる帝人に悪気などまったく見当たらない。
同情でこっちについたのか、友情からじゃないのか、俺達の友情パワーはどこにいったのと問い詰める正臣の声にはいはいと適当な返事をしている帝人に臨也がわざとらしくまじめぶった表情で頷く。
「なるほど、それが一番無難な方法だ」
「あんたは一度無難って言葉を辞書で見てきてください!」
自分に見えないところなんてなおさら悪い。そんなこと許可できるはずがない。それならまだ、やきもきさせられながらも見守っているほうがマシだ。
だが臨也という人間にはこれ以上近づかないほうがいい。経験上よく知っていた正臣は、今日はもう論破することはできないと判断し物理的手段に出た。
首根っこを掴んでいた手を離し、代わりに携帯を持っていない左手を握るとその場に立ち上がった。
「わかった、お前とは二人きりでよーく話し合ったほうがいいことがよくわかった! これから真剣しゃべり場十代二十四時間を行う! イン帝人の家!」
「え、僕の家決定なの?」
「決定なの!」
引きずられるように立ち上がった帝人は乗り気ではない。明日も学校があるのに、と呟く声にお前は俺達の将来と学校のどっちが大事なんだと聞きようによってはあれなことを叫びながら玄関を目指す。これ以上臨也の事務所にいたら毒されそうだ。
そんな二人を引き止めることなく、それはもう愉快で楽しくてたまらないという声が正臣の名前を呼んだ。
それに玄関に向かいながらも律儀に返事をしてしまったのは雇われ人としての性だろうか。
「溺れてる人間の手を掴むとどうなるか知ってる?」
「いきなりなんなんすか、意味がわかりません」
唐突な話題の振りについていけないしついていく気もない正臣は切り捨てるようにそう叫び、玄関のドアを開け、出て行くときは思い切り音をたてるように閉めてやった。
ずんずんと帝人と手をつないだまま駅へと向かって歩きながら正臣は次の作戦を練っていた。
臨也には帝人に近づくな、と念を押しておいたほうがいいだろう。意味がないとは思うが、言わなかったら言わなかったで『そんなこと言われた覚えはないよ』と人の神経を逆撫でするようなことを平気で言うのが折原臨也という人間だ。
(帝人にもちゃんと言っておかないと、家に着いたら俺が臨也さんに頼った結果がどんなものになったかを伝えよう。自分の馬鹿が原因とは言え、臨也さんはあえてミスリードを誘う人間だということがたぶん帝人はまだわかっていない)
自分の言葉を帝人がちゃんと聞いてくれるかはわからないが、言わないでいたせいでつけこまれたのだからと考える正臣の思考を止めたのはぐいと引っ張られた腕だった。正確には正臣と手をつないでいた帝人が唐突に立ち止まったために、自然後ろを振り返ることになった。
「どうしたんだ?」
「ごめん、正臣。用事ができたから、また今度にしてもらっていい?」
帝人は苦笑いを浮かべ、どうやら正臣に引きずられながらもずっと操作していたらしい携帯を懐にしまった。
「用事って、おい」
「抜けてもらわないといけない人がいるみたいなんだ」
「…………?」
眉間に皺を寄せ、何から抜けてもらうのか、それは帝人が何かするべきものなのかと考えた正臣はすぐに帝人が何を言わんとしているのかがわかった。
自分が帝人と杏里の前から姿を消して、その次に会ったときの帝人の姿が正臣の脳裏をよぎる。鮫をモチーフにした青いマスク、ひびの入ったゴーグル、ぼろぼろの姿……平気で人間に火をつけ、その後もいつものように微笑んだ帝人に危機感を覚えたことは昨日のことのように覚えている。だからそんな世界から帝人を引き離すつもりだったのに、そのために傍にいるのにどうして帝人はそちら側に行こうとしているのか。
「ば……っか言うな! なんでお前がそんなことしないといけないんだよ!」
「だって僕がダラーズを作ったんだから責任をとるのは当然だろ?」
確かにダラーズを創設した一員は帝人だ。だがダラーズという組織は帝人が言うような、不要な人間を排除するシステムなんか無かったはずだ。不要か必要かなどというのは主観での判断にしかならない。そんなことになったら無色透明な正臣も知っているダラーズではなくなってしまう。
いやすでにそうでないことは重々承知していた。
「帝人、お前……お前さ、俺に言ったじゃないか。俺と杏里が帰ってくる場所を作るって。俺も杏里も傍にいるじゃないか、なのにこれ以上何をするって言うんだよ?」
問いかけに帝人は何も言わない。ただ、すぅっと口元が歪んだ。口の端が上がり三日月のように見える。
笑みにも種類がある。シニカルにだとか、申し訳なさそうにだとか、困ったようにだとか、もしそういった感情が見える笑い方なら正臣も納得ができた。しかし帝人が浮かべていたのはただ単純な笑顔だった。笑顔としか表現できない、それは日常の中なら違和感がなく、非日常においては異常性が際立つくらい、正臣が馴染みのある帝人のものだった。
「僕、もう行かないと。それじゃあまたね」
何気ない別れの言葉。くるりと向けられた背中に向かって何を言うべきかもわからず、ただいつの間に帝人の手を放したのかと考えようとして―――
「正臣!」
「うおっ?! ……沙樹?」
突然視界いっぱいに現れた沙樹の心配そうに見つめている顔に正臣は瞬きを繰り返した。心臓がバクバク言っているのが自分でもわかる。
「何だよ、いきなり」
「それはこっちのセリフだよ。すごくうなされてたから心配したのに」
沙樹は顔を離すと慈しむように正臣の額にかかる髪を払った。汗でベタついてるそれに嫌な顔一つせず、大丈夫? と尋ねる声に正臣は腹から搾り出したような吐息で応える。
(夢……そうか、夢か)
夢でなければあんな簡単に帝人と臨也という組み合わせといられるわけがない。わかっているのに、夢の中で感じた焦りは本物のように思えて、思い返すだけで冷や汗が出そうになる。夢の終わりに見た帝人のあの微笑はつい先日現実に見たばかりのものだから特に鮮明に残っているような気がする。
待ってて、とあのとき帝人は言っていた。それがどういう意味なのか。考えれば考えるほど幼馴染が自分から深い暗い場所へ向かっている想像しかできない。
何も言わない正臣に沙樹は少し首を傾げた。
「知ってる? 嫌な夢ってね、人に話すと現実にならないんだよ」
「……マジでか」
「うん、マジで」
正臣は夢から覚めた混乱でおびえる頭を整理させるように、目元を自分の両手で覆ってから話し始めた。
「俺の、幼馴染がさ」
「うん」
「…………」
そこから先を何と説明したらいいのかわからない。たかが夢だ。現実ではないのに、どうして自分はこんなに焦燥感を感じているのかもわからない。それに、沙樹の目の前であまり臨也の名前を出したくはなかった。
沈黙する正臣をどう思ったのか、沙樹はしばらく閉じていた口を開いた。
「幼馴染って、正臣が言ってた高校になってから池袋に来た子だよね?」
「そう、そいつ」
片手だけピっと人差し指を立てて仰向けになったまま頷く。
「あいつはさー、突っ込みが厳しいやつなんだよ。俺は人生で初めて√3点なんていう点数聞いたね。それに奥手だ。傍から見てたら露骨なくらい杏里のことだって気に入ってたのに、中々一歩を踏み出さないしさ、やきもきさせられる俺の身にもなれってんだよ。変なところで頑固だし、夢中になると人の話聞いてないし」
小さいときも、池袋に来たときもきっと一番傍にいたはずだ。
(帝人のことが一番わかるのは俺だと思ってたんだけどな)
それはただの驕りだったんだろうか。自分だけがわかっているつもりで、帝人にとってはそうじゃないんだとしたら。
「それだけ悪く言えるところがあるのに、心配で仕方なくって、夢に見ちゃうくらい大事な人なんだね」
悲観的な方向へと傾く正臣の思考を読んだように沙樹は静かな声でそう言った。
「大事な人なら自分から手を伸ばさないと。振り払われても、見向きもされなくなっても、正臣がそれだけ大事におもう人ならきっとずっと手を伸ばされたことを忘れられないから」
だって正臣がそうだもん。
くすくすと何かを思い出したかのように笑う沙樹に正臣はふてくされたかのような目を向けた。
沙樹には帝人と会ったことも、帝人が今何をしているかも話していない。それなのにまるで全部わかっているかのように話す口ぶりに、そんなに自分はわかりやすいだろうかといいたくなる。
「正臣はわかりやすいと思うよ。少なくとも、私にとってはね」
どうやら目線で正臣が言いたいことがわかったらしい。アイコンタクトができる相思相愛の相手、と言えば聞こえはいいかもしれないが、自分の弱みまで見破るのは勘弁願いたい。
「沙樹にはかなわないよなぁ」
「あたしだって正臣にはかなわないよ?」
やわらかく笑むその顔を見るとそんなものかと思えてくる。
「あたしは正臣にはかなわないし、正臣はあたしにはかなわない。だから一緒にいられるんだよ」
ゆるい力で沙樹が正臣の手を握る。冷たいとも暖かいとも感じない、自分と同じくらいの温度の掌だ。目を閉じれば境界線が曖昧になりそうな温もりは心地よかった。
「あたしと正臣は似てるから。だから、わかっちゃう。たぶんね」
「……似てねーよ。まったく似てない。沙樹は俺みたいに逃げ出したりなんかしないだろ」
口から出てきた声は自分が思っているより硬く、震えたものだった。情けないなと思ったが沙樹の前ではいまさらだ。
「馬鹿だね、正臣は。逃げられないからそんなに悩んだりしてるくせに」
沙樹の指がゆるい力で正臣の頬をつつく。
「そうだよ、目を背けるくせに逃げる度胸もない臆病者なんだよ」
「それの何が悪いの?」
「何が、って……」
瞑っていた目を開ける。沙樹は目を閉じる前と同じ微笑のままだった。
「そういうのも全部含めて正臣だよ。正臣がどれだけ自己嫌悪に陥っても、そんな正臣に帰ってきてほしくてがんばってる人がいるんでしょう?」
「……沙樹、お前な」
待っている、ではなくがんばっているという言葉に正臣はため息を吐いた。帝人のやっていることの目的を沙樹に言える人間には自分以外に一人しか思い当たらない。
一応仕事の上司なので沙樹と話すこともあるだろうとは思ったが、一体何を吹き込まれているのかと言いたくなってしまう。
そんな正臣の言外に込められた憂鬱に沙樹は笑みを変えないまま応えた。
「もしね、正臣があっち側に帰ったらどうなるのかなって聞かれたの。今はあたしと正臣の二人だけで世界は完結しているかもしれない。だけどそこに、あたしと同じくらい大事な誰かが入ってきたら?」
臨也らしい不安を煽る聞き方をしたものだと正臣は眉間に皺を寄せる。だがそれもよく知っている手口だ。
「沙樹も杏里も比べられねーよ。どっちもジャンルの違う激プリティだからな!」
意図的に明るく出した声に沙樹はくすくすと笑った。
「うん、じゃあもう一人は?」
「…………」
咄嗟に答えられなかったことに一番驚いたのは正臣だった。しかし沙樹にとっては想定内のことだったらしく、沈黙に対して何も文句は言われなかった。
ただ静かな声で、紹介してね、と沙樹は呟いた。
「正臣と、杏里ちゃんと、その子の三人が一緒にいてもいいって思えたら、あたしのこともちゃんと紹介してね?」
言われた言葉に一瞬頭がついていかなかった。じわじわと脳に沙樹の言葉がしみこみ、認識した瞬間腹筋の力だけで起き上がり、両手で沙樹の肩を掴んでいた。
「あ……ったりまえだろ! 沙樹と杏里で両手に花の俺! それをうらやましげに見る帝人! 完璧じゃないか!」
「どうかな? あたしがその子に惚れちゃうかもしれないよ?」
「何?! 沙樹は俺より帝人の方が男前だと思うかもしれないだと? ない、ないそれはない。ナンパ一つ満足にできない奥手くんに俺が負けるなんて!」
「だってあたしと正臣似てるもの」
「……っ」
どういう意味だよ、沙樹と杏里なんていうハイレベル美少女がいるのに帝人を引き合いに出すなんて帝人の負けが決まってかわいそうだろ? そもそも勝負にもならないじゃないか。
そう言うのは簡単だった。でも結局口から出たのは細い吐息と、沙樹には適わないよなという数分前に出てきた言葉だった。
「うん、正臣のことだもの。だから実はちょっと、会えるのが楽しみなんだ」
「楽しみ、かぁ」
帝人と杏里の二人と対峙した時の自分を想像してもまだ正臣は楽しみよりもどこか言い表せない怖さを感じていた。でもその怯えに負けたまま帝人がどこか自分の知らないところへ行ってしまうことのほうがもっと恐ろしい。
そういった感情は親友というには根が深すぎるのかもしれない。もし自分と帝人の性別が違えば沙樹の言うような惚れるという表現に近い言葉で関係性を表せていたのだろうか。
だがもし正臣と帝人が異性であるなら今までのつながりも築けてはいない。だから考えるだけ無駄なことだったと左右に首を振って考えを散らす。
それから正臣は沙樹に挑むように目を合わせた。
「でもな、沙樹」
「ん? 何?」
「俺はな、沙樹の嫁になりたいと思うくらいに沙樹のこと思ってるからな!」
「何それ。意味わかんないよ、普通逆じゃない?」
「逆でも何でも、俺の隣に沙樹がいるのは当たり前だってことだ」
その言葉に沙樹はパチパチと瞬きを繰り返してから、うん、と小さく頷いた。
「知ってるよ、正臣。あたしはどこにだって、一緒に行くよ」
「わかってる」
目線を合わせたのは自分からだったのに、いつも先に逸らしてしまうのは自分からだ。そんなことを思いながら下方へと正臣は視線を一度落としてから、再度変わらぬ笑みを浮かべる沙樹に目を合わせた。
「俺さ、ちゃんと沙樹のことをあいつらに紹介したいんだ」
「うん。あたしも紹介してねって、言ったよ?」
「そうだ。だから、だからさ……」
どんな言葉にしたらいいのかわからない。それでも正臣は自分の意思を明確な形にしたかった。そうすることで自分を奮い立たせようとしていたことすらもきっと沙樹にはわかっているのだろう。
ごくりと唾液を飲み込む音が妙に響く。静かな部屋で二人しかいないのだからそれも当然なのかもしれない。
今まで逃げ回っていた自分が帝人に何をしてやれるんだとか、そういった自分の矜持をすべて取り払ったら後に残るのはただ帝人を助けられるのは自分だけだという使命感だった。
それを口にしようとした、途端。ぐぅと場の空気に合わない能天気な音が正臣の腹から鳴った。
「…………」
「…………」
ぷ、と沙樹が耐え切れないというように笑い出す。ちょっと空気読めよ! と自分の腹に向かって突っ込んでみるも鳴ってしまった音はどうにもならない。
「ご飯にしよっか」
立ち上がった沙樹に正臣は自己嫌悪のため息を吐く。沙樹はそれに笑いながら両手を伸ばした。
差し出されたそれを掴んで同じように立ち上がると下からじっと沙樹が正臣を覗き込んできた。それに無言で、何だよ、とアイコンタクトを返す。腹が鳴ったことでしまらなかったことはぜひとも責めないでもらいたい。
無論沙樹もそれを責めることはしない。ただ笑って、おなかいっぱいになったら話を聞かせてね、と微笑んで台所へと二人手をつないで向かった。
終わり