せかみかで無配していたペーパーですよ






「嫌ですよ」



 人間の感情はどこに支配されているか、なんて曖昧な質問な答えは当然曖昧なものしかなく、人によっては脳だ心だなんだと左右される。形のないものを定義すること自体ナンセンスだし無謀な話というものだ。だが昔から人間はできないことこそやりたがる。空を飛ぶこと然り、深海を泳ぐこと然り。生身では無理な話だから機械に頼るわけだけど、ツールを使えば目的を達成できるというのなら、どんなものでも使うべきじゃないのかな。
 そんな話はわざわざ浪々と目の前で、少しでも俺から距離を取ろうと後じさっている彼に今更言うことでもない。長く一緒にいたおかげか帝人君の考え方の癖はわりと俺に似てきてると思うんだよね。それを口にすると彼は朱に交われば赤くなるもんですよと興味のなさそうな顔で答えてくれるんだけど、俺としては毒をもって毒を制すという言葉を贈りたい。だって帝人君の言い方だったら元々無色だった彼が俺の影響で色づいたように聞こえるじゃないか。
 この子の外見からはわからない性質の悪さは、俺とこんな関係になる前から片鱗を覗かせていたのに酷い話だよね、まったく。まああの子のそういう無自覚な悪辣さは嫌いじゃないけどさ。当人に言わせると、そんな風に自分のことを極悪人か何かのように評するのは俺だけだし、実際そういう態度をとるのも俺相手に限定されるらしい。日頃の行いを省みればそんな扱いになるのも当然じゃないですかね、なんて冷たいことを言うものだから溜め息を吐きたくなる。どうせなら恋人相手には気負わずに本当の自分を見せてしまうんです、なんて可愛いリップサービスの一つでもしてくれればいいのにさ。
 言葉は偉大だ。他人の心情なんて目に見えないものでも言語を駆使することで伝えることができる。偽りの言葉であっても関係がスムーズになるのであればいくらでも使えばいいし、さらに言うのなら、恋人を相手にするのであれば自分の気持ちを伝えることを惜しむべきじゃないと思う。だからこそ俺は帝人君相手には好きだとか、愛してるなんていう砂糖でコーティングされた甘い愛情を伝える言葉を降らせるよう囁くし、彼が俺の言うことをきちんと聞いてくれればそれを労うことも忘れない。
 だから今、俺が手にしているこれを彼が身につけても似合わないところで誹る言葉なんて言うつもりはまったくないんだけど、それでも帝人君は首を左右にぶんぶんと振りながら頬を引き攣らせた。
「臨也さんは忘れてるかもしれませんが、僕はもう二十歳を越えてるんです! 十代のときより骨格もしっかりしてますし、背だって伸びました!」
「知ってるさ。体重もちょっと増えたよね」
 風呂上がりにきちんと測ってることは知っている。どこに筋肉がついたかだとか、そういったことは裸で触れ合えばすぐにわかる。ちょっと太った? なんて事の真っ最中に聞くと、相手が異性だったら泣かれたり蹴り飛ばされたりしそうな言葉だけどこの子は嬉しそうに笑うんだよね。大学では文化系のサークルに入ってるし、昔みたいにやんちゃしてるわけじゃないから身体を鍛える必要はないんじゃないかと思わないでもないが、新宿の情報屋のお手伝いをしているのなら最低限自分の身を守れるようにしないといけないとは考えているのかもしれない。今現在守れてないけど。
「わかっているのなら! それ! そんなもの持ってこないでください!」
「えー……?」
 帝人君が怒りなのか羞恥なのかよくわからない感情に震えながら指差しているそれ、に視線を向ける。さっきからずっと俺が握っているものだ。柔らかな黒のシフォンでできた、ところどころレースとリボンがくっついている、それ。彼は視線で燃やせないかとばかりに睨んでくるから、見えやすいように広げてやった。
 両手の人差し指と親指で肩紐をつまむと、ひらりとAラインに広がる。胸元にあたる部分は本来これを着る、女性の柔らかな胸を美しく見せるためのカットが施されていて、いわゆるベビードールと呼ばれるものを目の高さまで持ち上げたら薄手の素材の向こう側で帝人君が目を逸らしたのが見えた。まったく初心な反応だよねぇ、そういうとこが可愛いけど、あざといと思うよ。
「ねえちゃんと見なよ。可愛いじゃないか、これ」
 そう言いながら彼によく見えるようにひらひらと揺らしてみるも帝人君は顔をこちらに向けてくれない。横を向いて俯く顔はうっすら紅潮していた。
 これの色は黒で、装飾のリボンだけがサテン地でできたピンクだ。俺の個人的な好みとしてはこういういかにも狙ってるような色ってそんなに好きじゃない。むしろ白とか水色といった淡い色合いの方が可愛らしいんだけど、と思いながら口を開く。
「帝人君はこういうのが好きって言ってたじゃないか」
「…………」
 視線だけこちらに向けた帝人君の目は雄弁に、忌々しいとか、わざとらしいとかそういったマイナスの感情を訴えてくるけどそれには笑顔を返す。だって一緒にアダルトビデオを見ていたときに彼が下着は白よりも黒のほうがいいって言ったんだ。恋人の好みを覚えているなんて俺ってば健気だよね。
「あれは、臨也さんが……」
 語尾がごにょごにょとぼやけて何を言っているのか聞こえない。言わせたんじゃないですか、と呟いたような気がする。大方それを言うきっかけになったことでも思い出しているんだろう。耳まで赤くなってるし。
 アダルトビデオを一緒に見ることになったきっかけは、あの子がビデオレンタルショップで一度もその類を借りたことがないと言ったからだ。いかがわしい動画を一度も見たことがないわけではなく、ネットの配信で十分事足りるのだと言っていた。それでも何事も経験を積むのは大事なことだと思ってその日にレンタルショップに連れて行き、どれがいいかを選ばせた。初めて入った肌色が並ぶコーナーに気まずそうな顔をしていたことを思い出す。
 帝人君が選んだのは特にこれといった特徴のない、ノーマルなものだった。ランキングに並んでいたのを手にとったのはじっくり眺めて物色することで俺にからかわれたくなかったからだろう。一度も染められたことのなさそうな黒髪の女優が主演のものを選ぶあたりこの子の好みって変わらないよなぁと思う。
「一見真面目そうなタイプが一皮剥けば、っていうのが好きなんだろ?」
「別に、そんな好みはないですよ……」
 憂鬱さを孕んだ溜め息を零す帝人君に思わず鼻で笑うと、彼は胡乱な眼を向けてきたからふと思い出したことを口にしてみた。
「君が高校のときに好きだった子がその手のタイプだったよね。だからほら、初めて女装の道具を用意してあげたときも茶髪じゃなくて黒髪のウィッグを選んでたじゃないか」
 迷うこともなく長い黒髪のものを選んだ姿を見たときには思わず苦笑してしまったものだ、なんて思い出に耽っていると帝人君が音がしそうな勢いで俺の顔を見た。
「それこそ臨也さんのせいじゃないですか!」
「……はぁ?」
 俺のせいってなんだよ、君が誰を好きになるかなんて俺が関与できる部分じゃないだろうという反論を言うよりも先に帝人君は言葉を続ける。
「あの日、臨也さんが僕に差し向けた女の子が黒髪だったんですよ! 腰まである長くてつやつやした! 直前にそんなのを見せられたら、テンパってる頭では脳内にあるイメージを最初に選んでしまうに決まってるじゃないですか」
 そうだったっけ、と思考を巡らせてみるが、あのとき帝人君に伝えてくれるよう頼んだ少女の顔も名前も思い出せない。あの頃は身の回りに使えそうな子をたくさん用意していたから仕方ないんじゃないかな。ふうん、でもそうか、あれってあの頃の思い人を意識してってわけじゃなかったのか、へえ。
 少しばかり機嫌が上向きになり、自然と口の端が上がる。それを馬鹿にしていると彼は判断したらしく、むっと眉間に皺を寄せていた。
 そこに唇を寄せて、身体を引き寄せたくなった。ぐだぐだに甘やかしてやりたいなと思うくらいに今の言葉は悪くない。でも持っているこれを着る姿も見てみたいんだよね。
 二律背反する思いを天秤にかけ、結局後者を選びなんとか着せるための文句を選ぶ。 
「似たようなのを昔、着たことがあっただろ?
「は? に、似たようなのって…………」
「同じような色の、シフォンのワンピース。着せてあげたと思うけど」
「ワンピース……」
 呟くと帝人君は目を伏せて、記憶を探るように瞬きを繰り返した。
 女装をしたこの子と過ごした最後の日に着せた衣装だ、さすがに忘れていないだろうという俺の予想通り、帝人君は思い当たったらしく眉間に皺を寄せたまま俺の顔を見た。
「あれはそんな風に透けてなかったじゃないですか!」
 確かにあれは裏地がちゃんとついていて、夏であれば外出するのにふさわしい装いだった。スカートの丈が短すぎるから女装には向かないけどね。
「透けなければいいんだ?」
「え?」
 言質をとったとほくそ笑み、手に持っていたものをベッドの上に放り投げてからクローゼットへと向かう。その隅の方に置いておいた紙袋の中から別のベビードール……というよりキャミソールというほうが似合う、クリーム色のものを取りだした。
 丈はさっきのものと同じくらいだし、ふわりと下に向かうにつれて広がるラインも似ている。だけど装飾はずっと少なく、胸元に焦げ茶色の小さなリボンが一つと、あとは裾をレースが彩るだけだ。
「はい、どうぞ」
「何でそう、次から次に出てくるんですか」
 不満そうな口調の帝人君には当然、恋人に着せるためじゃないかと一際笑みを深めてみせた。
 さっき帝人君は似合う似合わないを口にしていたけどそんなことが問題なんじゃなく、普段とは違う格好をして恥ずかしげに頬を染めたり、視線を彷徨わせたりする姿を見たいんだけだ。
 その理由を言うと変態ですか、なんて辛辣な言葉が返ってくる。
「コスプレ趣味があるとは知りませんでした」
 勝手に彼の脳内で俺は『恋人にこういう格好をさせたがる性癖がある』と思い込んでいるのが手に取るようにわかる。違うのに。
 ただ着せるだけなら簡単だ。本格的に運動をするとか、ジムに通ったりなんかはしていない貧弱な帝人君を無理矢理組み敷き言うことを聞かせるなんて朝飯前じゃないか。正直、片手でできると思うよ。それは今も昔も変わらない。
 わざわざ相手のお伺いをたてて、着てみせて俺にしか見せれない可愛い姿を見せて、とねだっているだけなのに冷たいんじゃないかな。この子がつれないのは今更なんだけどさ。
 さて、どう言ったら自分の主張を押し通すことができるのか頭を使いつつ、まあ着てくれるまで絶対に寝室から出さないんだけどね、と胸中でだけ呟いた。











おしまい