起きた瞬間頭に浮かんだのは、その日は朝から夜だったという某有名アニメのオープニングだった。たぶん最近の若い子は知らないだろう。僕だってこの間再放送を見てそういえばそんなフレーズだったなと思い出したくらいだ。
子供のころはアニメの主題歌なんて特に気にもせず、変な歌だなぁ程度にしか思っていなかったが今ならわかる。朝から夜だったってことはわりと頻繁にあるのだ。自分が起きた時間を朝だと認識するならだけど。
そんなわけで、僕が目を覚ました時にあたりは少し薄暗くなっていた。時計を見ると夕方と言うべきか夜と言うべきか微妙な時間だ。
狭い四畳半の部屋にしいた畳の上であくびとため息が混じった息を吐き出す。眠い。ものすごく眠い。どれくらい眠いかと言われればこのまま布団に逆戻りして寝なおしたいくらいに。 昨晩は飲み会の三次会まで付き合わされた後家に帰り、延々パソコンを朝まで見ていた。学生のころは徹夜してもぴんぴんしていた。だけどこの歳になると強烈な睡魔に勝てる気がしない。そもそも勝つ気もない。今日が休みだからこそ飲み会にだって参加したし徹夜もしたんだ。惰眠をむさぼって何が悪い。そう思うのに、玄関から聞こえるノック音はそれを許してくれなかった。
最初はコンコン、と控えめな音だったが中々応対されないことに焦れてか、今はサンバのリズムを刻んでいる。正直うっとおしい。こんな馬鹿げたノックをする知り合いは一人しかいない。というか突然家に来るんじゃなくて携帯か何かで連絡くれればいいのに、正臣め。こんな時間に来たということはたぶん今日が土曜日だから飲みにでも行こうと誘いに来たんだろう。
僕が学生時代に慣れ親しんだ池袋に戻ってきたのはつい一週間ほど前のことになる。大学を出てから地元で就職して、のんびりと暮らしていたのに突然異動を言い渡された。何でも本来池袋に出向予定だった人間が急に体調を崩して辞めてしまったらしい。降って沸いたようなその話に従ったのは所詮上には逆らえないというサラリーマンの性と、なんだかんだでこれは出世コースの一環でもあるということを知っているからだ。それにこの街は知り合いも多い。幼馴染の正臣もその一人で、僕がここに越してきた当日には引っ越し祝いだと飲みに連れていかれた。それからまだ七日しか経ってないのにまた誘いに来たのか。毎週末来る気かもしれない。面倒くさいなぁもう、と言いつつ口元が緩む姿は幼馴染には絶対に見せられない。見せなくても喜んでいることはバレバレだろうに、こんな顔を見せたりしたら絶対に増長する。
昨日飲み会だったから僕の肝臓のライフはゼロに近いんだよ、ていうか何で今日も来たの、と呆れた顔で言ってやろう。正臣のことだから『俺が来ることくらいわかってただろ? それなのに肝臓を酷使済みだなんてどういう了見だ! ていうかかわいい子いた? 隣に座った子はどんな子だった?』とかなんとか軽口を叩くに違いない。僕の歓迎会だったのだから飲まないほうがおかしいだろ、といつものように言い合うつもりでドアを開けた。
「……え?」
人の安眠を妨害した報復に、まずチョップの一つでも正臣にお見舞いしてやるつもりだった僕にとってそこにいたのは予想外の人物だった。
「こんばんは、帝人君」
寝てたの、それならおはようかなと目の前の人間は笑った。
馬鹿なことばかり言う幼馴染は、言動はあれだが立派な社会人だったはずだ。スーツに着られることも、居酒屋で年齢確認されることもないような(いやこの歳になってまでされてることがおかしいっていう自覚があるんだけどさ……)いわゆる大人の男にカテゴリーしても良かったはず。
それなのに目の前にいたのは、短めの学ランに赤いシャツを着た少年だった。
「え、ええと……」
短ランなんてレトロな着こなしだよなぁ、僕が学生のときだってすでに絶滅危惧種だったっていうのに、という考えよりも先に思ったことが口に出た。
「……学生相手に君付けで呼ばれる覚えはないんだけど」
どれだけ顔が幼く見えようが僕だって社会人だ。子供相手にタメ語で話しかけられる覚えはないんだけど、と自然ムっとした口調になる。それがさらに幼く見える動作だということにはやってから気づいた。
「あはは、そうだねぇ」
語尾をわずかに延ばす、どこか色香を感じさせる物言いは耳に心地いい。聞いているのが同性でなければドキリとしたかもしれない。
「でもなんだか敬語を取っ払いたくなる雰囲気があるよね」
よく言われない? と彼がゆっくりと首を傾げた。重力に従って長めの前髪が流れる。見目のいいこの子だから絵になるけど、そうでなければ何を男のくせに可愛い子ぶっているのかと言いたくなるそれはふと昔から懇意にしている先輩を思い出させた。自分の見た目がよくわかっていて、どういう風にすれば相手を篭絡できるか知っているこの仕草。僕より身長が低かったころの青葉先輩もこんなことをときどきしていたな、と懐かしく思いながら眉間に手をやる。
「……雰囲気だけで人を判断するものじゃないと思うけど。年上には敬語を遣えって習わなかった?」
いくら僕より目線が高くても(高校生の頃の正臣と同じくらいの身長だろうか)、どれだけ大人っぽく見えようとも年上相手に敬意を払わなくていい理由にはならない。ついでに、取っ払いたくなる雰囲気の一因に僕の童顔があるのだとしたら一々人のコンプレックスを刺激しないでもらいたい。社会人になって数年経つのに今だ新卒に……下手をすると学生に間違われるこの顔が貫禄というものに欠けていることは嫌というほどわかっている。
そういうことをしていると社会に出てから苦労するからね、と年上としてのアドバイスも付け足して言ってやると、目の前の少年は邪気の無さそうな笑みを浮かべた。
「でもさぁ、帝人君だって俺にはタメ語だろ? そんなの不公平じゃないか」
不公平という言葉の意味をこの子は知らないんだろうか。なんだか会話のキャッチボールがおかしい気がする。なんというか、僕は野球ボールを投げているのにそれをこの子はラケットで打ち返してくるというか……たぶん意図的なんだろうけど。
「…………初対面の相手には、最低限の礼儀を払うべきだと思いますよ」
「帝人さんがそう言うんなら従います。ああ、帝人さんは俺に敬語で話さなくてもいいよ?」
搾り出したような声にそう返ってきたのでなんだか頭が痛くなってきた。
この子の考えていることがいまいち理解できずに、それでも一応君付けからさん付けに変わったのだからまだマシなんじゃないかなと考えてからふと気づいた。
「ていうか……誰?」
時代を感じさせる学ランの着こなしをしている少年とは初対面、のはずだ。高校生との接点なんてこの歳でそうあるわけじゃない。この子が男だからいいけど、もし女の子だったりした日には援助交際を疑われかねない。……まあ、一緒にいるだけだったらそうは見られないかもしれないけどさ。年より若く見える外見のメリットってそれくらいしかないし。
そんなことを考える僕の目の前で彼はポカン、と呆けたような顔をした後に、腹を抱えて笑い出した。
「それって一番最初に聞くべきことじゃない?」
なんで敬語がどうのって話しが先にくるの、もしかして帝人さんにとってはそのかわいい顔コンプレックスなの、と目尻をぬぐいながら(そこまで笑うほどのことだろうか)問いかけてくる彼に頭痛が増してくる。
「最初から礼儀正しい態度だったら僕だって順番に話ができたと思うんだけど」
こめかみのあたりを押さえながら、出てくるため息をこらえもせずにそう呟く。
不躾な子だな、とは思うもののどこか憎めないような雰囲気を感じさせるのは彼が悪意を持っているわけではなさそうなのがわかるからだ。まぁ、人の安眠を妨害したあたりは嫌がらせに似た何かを感じるけど、僕が寝ていることを知らなかったのならしょうがない。
それにしても、と思う。この人の懐にするりと入り込む感じはやはりあの人に似ている。青葉先輩に似ているなら悪意の有る無しにかかわらず対応に気をつけないとなぁと考える僕に彼はにっこりときれいな笑顔を浮かべた。
「初めまして。奈倉です」
「……奈倉君、ね。何しに来たの?」
名乗った名前におや、と思ったことなど顔には出さず用件を尋ねる。この子の笑い方ってチェシャ猫を彷彿とさせるなぁなんてどうでもいいことに思考をとられている僕に、彼はしれっと非常識なことを言い出した。
「帝人さんと友達になりたいな、と思って」
「…………」
あ、やばい頭痛が痛い。そんなおかしな日本語が頭をめぐるくらいには僕はこの子の会話のキャッチボール術がおかしいと感じていた。友達になりたいって、どうして。
僕より少し高いところから見下ろしてくる彼の目は、柔和と表現してもいいくらいには好意的に見える。が、それは見えるだけである種のポーカーフェイスのように感じた。こういう顔をしているほうが自分に都合よくことが運ぶとわかっているその表情にまたため息が出てくる。自分の魅力をよく知っている人間って厄介だなと思いながら、上から下まで見定めるように動かす僕の視線にも彼は笑みを絶やさなかった。
「友達?」
「そう、友達」
友達になりましょうと言って近づいてくる人間に限って本当に友人になる気はない。経験談だ。
じっと彼の顔を見つめてから、まるで今初めて気づいたような素振りで、あぁ、と声を出した。
「君、来神高校の子だっけ」
「俺のこと知ってるの?」
僕の母校でもある高校の名前(昔は来良学園だったけど)を口にすると彼は驚いた顔をしてみせた。わざとらしく作ったその表情に苦笑いを浮かべてしまう。
来神高校の制服は今でも青いブレザーのはずだ。それなのに黒の学ランを着ている彼が来神だとわかったことには理由がある。
「知ってるというか……平和島静雄とこの間揉めてただろ?」
平和島、と名前を出した途端に彼の表情が変わった。忌々しいとでも言いたげなその表情は今まで浮かべていた嘘くさい笑顔よりよっぽど好感が持てる。
「何……シズちゃんと知り合いなの?」
「一方的に知ってるだけだよ。有名だものね、彼」
この街に戻ってきたときに正臣からおもしろい高校生がいると聞いていた。正確には、お前が興味を持ちそうだけど絶対に近づかないほうがいい、だったけど。ちょうどその話をしていたときに目の前で自動販売機が空を飛んだのだから興味を持たないほうがおかしい。そう思ったが幼馴染には言わないでおいた。軽そうに見えても面倒見がよく心配性な彼にいらぬ心労をかける気はない(と本人に言ったらそれじゃあ黒沼青葉と縁を切れって言われそうだけど)(それも無理なので正臣に内緒にしていることはたくさんある)。
「平和島君のほうは僕のこと知らないだろうね。僕はそんな有名じゃないから」
平凡で上司の言うことに逆らえないただのサラリーマンなんてどこにでもいる。そういうつもりで返した言葉に彼は目を眇めた。ついさっきまで浮かべていた歳相応の不満そうな顔はどこに行ったのかと言いたくなるくらいの豹変ぶりだ。
「そんな謙遜言わなくてもいいんじゃない? 池袋の情報屋の田中太郎さん?」
「…………」
一瞬だけ息が止まる。そんな僕の様子に彼は得たりとばかりに微笑んだので失敗したな、と思う。即座に否定するのは肯定を意味するようなものだけど、まさかそんな風に思われているとは予想外すぎて思考が止まってしまった。でも彼は自分の推論が当たっているから僕がこんな顔をしたと思ったことだろう。
「ええと……」
できるだけ言葉を選ぶように、妙な誤解をされないような言い方をしようと考えながら首を傾げた。
「池袋の情報屋って、黒沼青葉だよね?」
先輩を呼び捨てにするのは少し気が引けるが、池袋で有名な彼の名前はある種の記号みたいなものだ。黒沼青葉に近づくな、というのはわりと聞く話ではある。耳で、ではなく目でだけど。
大学を卒業した後に彼が始めたやくざ紛いの仕事は、正確性と本人の人柄のせいでいい意味でも悪い意味でも有名だ。この街にいなくてもネットの情報だけでそれは知ることができる。
「彼は僕の先輩だけど、もし紹介を期待するならあきらめたほうが、」
「そう、黒沼青葉がやっているのに、事務所の名前は何故か田中事務所、なんだよねぇ」
人の言葉をわざわざ遮って彼はそう言った。田中、どこにでもよくある名前じゃないか。
「青葉先輩の考えていることは僕にはよくわからないけど、人に覚えてもらいやすい名前にしたかったんじゃない?」
ありきたりな言葉だなぁと口にしながら思うけど僕にはそう言うしかない。実際、あの事務所は今は彼のものだからだ。立ち上げ時には僕もいろいろやっていたけどそれも学生の暇だった頃までで、僕が就職してからは手を出してない。もちろん口もだ。そもそも情報を集める手腕に関しては青葉先輩は僕の手なんかそう必要とすることもないし。
ただ目の前のこの子は僕の言い分を聞く気はないかもしれないなぁ、と思った。笑みが崩れないからだ。それどころかものすごく楽しそうな声で笑った。
「やだなぁ、帝人さん! わざわざ架空の戸籍まで作ってあの事務所を『田中太郎』のものにしている意味が覚えてもらいやすくするためだなんて馬鹿げてると思わない?」
「さぁ。僕には青葉先輩の考えていることはよくわからないからね」
言いながら音が出ない程度の力で壁を叩く。顔は苦笑を浮かべたままだとは思うが(鏡がないので自分がどんな顔を浮かべているかなんてわからない)正直少し、驚いた。
あの事務所が誰のものかなんて登記を見れば一発でわかる。だけど『田中太郎』が架空の戸籍だと断言できるくらいに調べられているとは思わなかった。
池袋なんて人が多い場所に事務所をかまえるのだから、当然戸籍はきっちりと調べられる。だけど調べられても不都合がない程度にはきちんとしたものを作り上げていた、はずだ。
高校生に簡単にバレてしまう程度だった力量を嘆くべきか、それとも目の前の少年の実力を評価すべきか。どちらにせよ、戸籍が偽者だということを調べるのもある程度『田中太郎』のことを知っていないとやらないだろう。
そうまでして情報を集めた理由がわからない。今更背中にじわりと嫌な汗が浮かんできた僕に彼は、まぁ、いいやそれは、と明るい声を出した。
「あの情報屋が誰のものかとかは今はいいや。帝人さん、あんまり最近は関わってないみたいだし。それよりもさぁ、田中太郎であることは否定しないんだ?」
くすくすと笑う声はどこまでも歪んでいる。その歪さに深く息を吐いた。
「まぁ……田中太郎っていうハンドルネームは確かに使っているからね。まさかリアルで聞かされるとは思わなかったけど」
その名前は確かに僕が昔からずっと使っているハンドルネームの一つだ。本名があれなのでどこでもありそうな名前にしたかった。結果として、どこにでもある苗字+ありきたりな名前というのが逆に覚えやすくなってしまったようではあるけれど。
それにしてもネットの世界でしか使っていない名前をどうやって僕と結びつけたのか。僕はオフ会には行かないし、近頃は田中太郎としてチャットもあまりしていない。だけど疑問を口にする気はなかった。聞くよりも先に自分で答えを導き出したほうがこの子相手には速そうだと判断したからだ。
「君は僕と友達になりたいってことだけど……田中太郎としてはある程度親しい知り合いだと思ってたんですよ。甘楽さん?」
彼が名乗ったものとは違う名前を口にすると彼はにぃ、と口の端を上げて見せた。自分の満足のいく応えが返ってきたとでも言わんばかりのその顔にやはりそうかと納得する。
最近僕がチャットをしている数少ない相手の名前を口にした理由は簡単だ。甘楽という存在が池袋に住んでいることを本人が何度もアピールしていたこと、チャットでの会話でしかわからないが、妙に池袋の街の情報に詳しいこと。……いやまぁ、その他もろもろはあるけどね。
だけどさっきの事務所の話と言い、この子の情報収集能力と甘楽を結びつけるのはそう難しいことじゃない。
「よかった、太郎さんに気づいてもらえて!」
「ネカマはやめたほうがいいと思うよ」
「こっちのほうが情報集めやすいんだよ」
なるほど、確かにあのテンションで男だとしたら同性としてかなりイラっとくるかもしれない。
指先だけで何度も壁を叩きながら、ようやく彼がこの家に来た理由が見えてくる。
甘楽相手になら池袋に引っ越すことは伝えていた。どうやって僕と田中太郎が同一人物だとわかったのかは気になるけど、この街でそれを知らない人間がいないわけじゃない。
誰かから聞いたのか、それともこの子独自の情報網で調べあげたのか。可能性としては後者が高いかな。僕が田中太郎であることを知っている人たちはそう簡単に口を割らないだろうし。
「それで?」
「何が?」
疑問に疑問で返すのはどうかと思うが、意図的に会話を乱すのが彼の話術なんだろう。できるだけ相手に話させるのは情報を集めるのに都合がいい会話方法だ。
どうやら彼は僕の想像以上に厄介な人間らしい。
「わざわざ田中太郎に会いに来た意味を教えてくれる?」
まさか引越し先まで調べておきながら本気で友達になりたいわけじゃないだろうし、そもそもそんな労力をただチャットで話す相手に使う意味がわからない。
「太郎さんたら、甘楽ちゃんに会いたくなかったんですか?」
芝居がかった様子でネット上の口調を諳んじた彼はいきなり顔を僕の目前にまで近づけてきた。整った容姿は至近距離でも鑑賞に耐えうるものだ。毛穴一つ見つからないのは若さの証拠だろうか。
「会うなら会うで、前段階を踏むべきじゃないですかね」
彼に合わせてネットで使っている口調で言うとすぅ、と目が細くなった。その猫を彷彿とさせる顔から目を逸らさずにいると、間近で彼の唇が動いた。
「段階をすっ飛ばしてでも会いたかったんだよ。ダラーズの創始者に、ね」
「……へぇ」
別に驚くことじゃない。田中太郎を知っているなら、ダラーズと結びつくのも時間の問題だ。それにあくまで僕は創始者というだけで、今はダラーズの掲示板の管理も別の人間に任せてしまっている。
カラーギャングがいる池袋にあこがれて作ったダラーズが誇らしかったのは十代のころのことで、今はそうでもない。またこの街に戻ってくることが決まったときだって胸にあったのは少しばかり憂鬱な気持ちと、あのころのような期待を持つこともない自分への諦観だ。
「よく知ってるね?」
「それだけ?」
「何が?」
目の前にある紅い目が楽しそうな色を帯びてくる。正臣もパーソナルスペースが狭いけどこの子はそれの上をいくなと思いながらも、自分から距離をとることはしたくなかった。威圧されて逃げたように思われるのは癪だからだ。
「俺はね、田中太郎さんを見つけたときに驚いたんだよ! ダラーズなんていう有象無象の集まりとしか思えないようなカラーギャングを作るなんて何考えてるんだろうって思ったらさぁ、発案者が当時中学生!」
近づけてきたときと同じ唐突さで彼は僕から少し離れるとその場でくるんと回ってみせた。階段から落ちないようにね、と思いながらも注意はしない。そういう間抜けなことをしそうにも見えないからだ。
「わかる? そのときの俺の気持ち! 自分とそう歳の変わらない人間があんなおもしろそうなものを作ってたなんて! 俺は自分がもっと早く生まれなかったことを呪ったよ。だってさぁ」
一旦言葉をとめると彼は僕の反応をうかがうように言葉を続けた。
「ダラーズ、黄巾族、罪歌……今でも池袋で聞くカラーギャング達の抗争なんてなかなか見れないしね?」
言われた単語に懐かしい気持ちになる。確かに僕が彼ぐらいの歳のときにいろいろあった。もう過去の出来事ではあるけれど、ひどく苦い思い出を引きずり出すそれらの言葉は簡単に聞きたいものじゃない。玄関の壁に触れている手に自然と力が入ってしまうくらいには。
「君が僕と友達になりたいとかいう理由はそれ?」
自然と声が少し固いものになる。嫌だな、子供相手に本気で怒っているみたいじゃないか。
大人気ないなと思っている僕に彼はそんなことは気にならないとばかりに無邪気な微笑みを向けてきた。
「帝人さんが池袋に来るとは思わなかったんだけど、ここで暮らすなら俺と仲良くしてても悪いことはないと思うよ?」
「そう。例えば?」
僕の問いかけに彼は待ってましたと言わんばかりに両手を広げて見せた。
「飽きない非日常を提供できると思うんだよね!」
「……非日常、ね」
その言葉に乾いた笑いしか出てこない。彼の言葉が馬鹿馬鹿しいとは思わなかった。非日常、確かにそれは僕が一番惹かれる言葉だ。でもそんなことまで調べているなんてこの子は本気なんだなと思うと逆に、この子の得るメリットが気になる。
今の僕が提供できるものなんてせいぜい、青葉先輩への橋渡しくらいじゃないだろうか。でもこの子の様子を見るに特に情報屋の伝手が必要とは思えない。
「ただのサラリーマン相手にそこまでされると、少し怖いんだけど」
思ったことを呟くと彼は喉で笑った。
「やだなぁ、謙遜しちゃって!」
「謙遜じゃなくて事実だよ。君がいったい何を僕に期待しているかわからないけど、今の僕は出世に必死なただのサラリーマンだからね?」
「そう?」
それだけじゃないだろうと言いたげな目には苦笑を返すしかない。
「帝人さんがそう言うのならそれでいいよ。それに、俺が欲しいのは帝人さんだからね」
「だから―――…」
僕に取り入ってもなんのメリットもないよ、と言うよりも早く彼の整った顔がまた近づいてきた。え、と思うよりも早く彼の唇が僕の口に押し付けられ、すぐに離れる。
今、何をした? いや何もなにも、世間一般に言われるキスだろう。目の前で笑う彼から一歩下がり、胡乱な目で見上げてしまう。
「やだな、帝人さん。キスするときは目を閉じるのがマナーだと思わない?」
それを言うなら初対面でキスをするのはマナーに則ってるのかどうかを考えてもらいたい。もらいたいがそれよりも気になることがある。
「……まさか、そういう意味で僕に興味があるの?」
恐る恐る尋ねた声に彼は、んー? と間延びした声を出しながら可愛らしく小首をかしげてみせた。
「そうだねぇ、そういうことになるのかな?」
「…………」
「あっはは! その顔! そんなに嫌?」
「嫌、というか」
チャットでしか会話をしたことがない相手にキスをしてみたいと普通思うだろうか。インターネットが発展した昨今ではネット恋愛なんて言葉もよく聞くけど、実際に会ってその恋心が覚めるなんてよくある話だ。
「男同士だってわかってる?」
「もちろん」
帝人さんがかわいい顔でよかった、と付け足したその言葉は何のフォローにもなってない。
ネットでしか知らない相手に恋慕を抱けるなんて最近の若い子はこわい。これが時代の流れというやつなんだろうかと思いながら今日一番大きなため息をつく。僕の反応は予想の範囲内だったのか、彼は笑みを崩さないまま今日はこれで帰るね、と言った。
「帝人さんにちゃんと俺の気持ちを伝えることができたし」
今日は、というところに不穏な気配を感じる。また来るつもりだろうか。いやそれはちょっと。
「今度から会うときは外にしてくれないかな?」
「何? 急に家に来られたら困ることでもあるの?」
愉快そうに目を細めた彼は何を考えているのか、俺間男扱いされちゃう? ととんでもないことを言い出した。間男って、それってどういう意味だと突っ込むことも面倒だ。
「あのねぇ、何を勘違いしているのか知らないけど……」
眉間に寄る皺をほぐしながら、考えてみれば室内を隠しているから彼が変な想像をするのだと思い立ち少し玄関から身体をずらして中を見るように促した。
室内を見た瞬間彼が、うわぁ、と声をあげる。だろうね、僕もそう言われるだろうと思ったよ。
「何もないんだね、帝人さんちって。ていうか、これ人が暮らす部屋? 狭すぎない?」
「この間越してきたばかりだからね」
僕の室内にはパソコンと布団しかない。越してきたばかりだから、とは言ったが、学生のころここで暮らしていたときも似たようなものだった。あのころは必然に迫られて(主に金銭面で)シンプルな内装だったが、今はそういうわけではない。だがここにはほぼ寝るためだけに帰って来ることになるのでこれで別にいいと思っている。
寝るのとパソコンができればそれで不満はない僕に彼はえぇ……と不満そうに呟いた。
「しかもここ築何年? 音漏れなんてして当たり前って感じだよねぇ」
どうして音漏れを気にする必要があるのか。それを聞いたら後悔するとわかっていたので彼の言葉を聞き流し、だからね、と言葉を続けた。
「食器も一人分しか用意してないからお茶も出してあげられないんだよ」
そう言うと彼は両目をぱちぱちと瞬きさせた。どこかあどけないその表情に首を傾げる。
「何?」
「俺の分の湯のみがあればお茶を出してもてなしてくれるわけ?」
「……それは、まぁ」
それくらいはしてもかまわない。僕と何か楽しい会話ができるとは思わないけど、と続けた僕に彼は得心したように頷くと、次からは持参するよと言い背を向けた。
できれば次は僕の惰眠を邪魔しない時間がいいなぁと思いながら、帰ろうとする背中に向かって声をかけた。
「ねえ、何で今日来たの?」
「どういう意味?」
一段降りたところで振り返った彼はその質問がくるだろうことがわかっているような顔をしていた。まんまと彼の手中にハマったらしいことに気づき、苦笑しながらも言葉を続ける。
「僕が越してきたのは一週間くらい前だったからね……どうして今日まで来なかったのかなって思って」
彼が甘楽でなければ、僕の情報を集めていたんだろうかとは思っていたかもしれない。だけどチャットでの付き合いがずいぶん長いのだし、わざわざ今日まで待つ理由がない。
そんな僕の疑問に彼はあまりよろしくない類の笑みを浮かべながら答えてくれた。
「別に、帝人さんが本当に俺の思うとおりの人かどうかを調べてから会いに来たかっただけだよ。……昨日は楽しめたでしょう?」
「…………」
昨日。昨晩僕が寝不足になった原因は飲み会のせいだけじゃなかった。終電ギリギリに帰ってきた僕を待っていたのはダラーズ内部で紛争が起こっているという荒唐無稽な噂話が飛び交う掲示板だった。少し前からそういった話は出ていたが特に実害もないし、と二代目管理人も放っていたらしいそれが昨晩急に騒ぎになったのは、実際に池袋の街で襲われた人間がいるという話が出たからだった。
「なるほどね……」
結局それはすぐに収束した。というのも、襲った人間がすぐに捕まったからだ。ただの大学生でしかない青年が目の前の少年とどういう関わりがあったのかはわからないが、たぶんあの青年をいくら調べてもそれはわからないだろう。
今もまだ青葉先輩はあの青年にいろいろ話を聞いているのかもしれない、このことを教えようかと考えてから、どうでもいいかと結論づけた。
「僕を楽しませるためにしてくれたの?」
「そうだよ。でも思ったよりあっさり片付いちゃったね。いやぁ、さすが太郎さんは一筋縄でいかないなって惚れ直したんだよ!」
それはどうも、と礼を言うべきかどうか悩んで結局何も言わなかった。楽しませるって、人一人怪我させてまでしてもらいたくない。それに僕がしたのはほんの少し指示を出しただけだ。その後はただ成り行きがどうなるか見守っていただけで、それで寝るのが遅くなってしまった。
なんだかやっかいな子に好かれたなぁと思いながらもあまり悪い気がしない。
でもあくまでその程度だ。
「僕のためにしてくれたって言うのなら、お礼が必要かな?」
「くれるの?」
何をしてくれるんだと興味を隠そうともしない彼に近づく。一段下にいるおかげで彼の顔が僕より少し低い位置にあった。
「正直、昨日の夜みたいなことはあまりありがたいとは思えないんだよね」
「みたいだね。帝人さんには物足りなかったみたいだし」
「うん、それよりも……いつもみたいに平和島君と遊んでてよ」
天敵の名前を出すと覿面表情が変わった。
彼の心情はどうであれ、昨晩の事件よりもそっちを見ているほうが楽しいし、何より彼がちょっかいをかけることで平和島静雄はさらに力を使うことになる。異常ともいえる進化はそうやって日々身体を使うことで得たものだろう。それならこれからも彼には彼と遊んでもらわないといけない。
「シズちゃんと? ……ねぇ、それで俺にどんなメリットが、」
あるのかな、という呟きごと口で塞いだ。間近で見る紅い目が大きく見開かれる。それを見つめながら舌を差し出し、ゆるく開いた口の隙間にねじ込んだ。前歯の裏を舌で撫で、奥で縮こまっている彼の舌に触れようとした瞬間後頭部が引き寄せられる。
閉じられることのない目でにらみ合うように見つめあい、彼の口の中で舌を絡めた。粘着質な音が耳に障る。こんなところを誰かに見られたら面倒だなぁとは思うのだが、この時間はめったに人は通らないからまあいいか。
「ん……っ」
くぐもった声は彼の喉から聞こえた。頭を抑えてくる手に力こもったので僕が舌を引っ込めようとすると彼の舌が追いかけてくる。
それに千切れない程度の力で歯をたてるとすぐに彼の顔が離れた。
「い……った」
「あ、ごめんね?」
口元を押さえる彼におざなりな謝罪をすると恨みがましそうな視線が返ってくる。
「なに、焦らしプレイ?」
「あはは、まさか」
肩を竦めて彼の制服から手を放す。自分の唇を舐めるとすこしかさついていた。こんな状態で唇を押し付けたのは少し失礼だったかなと思いながらも、目の前の少年の耳元が染まっているのがわかったので気にしないことにする。これくらいであんな顔をしてくれるなら安いものだ。
同性に性的魅力は感じないがそういった人種が存在することくらい知っている。ついでに、この目の前の彼よりも長く生きている分そういった人間との触れ合い方も心得ていた。それを覚えたのは本意か不本意かと聞かれれば半々だ。でもまぁ、今こうやって使える手段があるのは幸いかなと思いつつも舌を気にしながら目線を逸らしている子供に声をかけた。
「一応言っておくけど、僕、未成年には興味ないから」
「……はぁ?」
音がしそうなほどの勢いで彼が僕の方に顔を向けた。
「子供には興味ないって言いたいの? あんなキスしといて? そんな童顔なのに?」
「……童顔は関係ないだろ」
あんなキス、については言及しないでおく。そんな大層なことはしていない、たかが舌を触れ合わせただけじゃないか。それくらい彼だっていくらでも経験しているだろうに(これだけ外見が整っていれば黙っていても人は寄ってくるに違いない)。
「じゃあなに、子供は面倒くさいとか?」
「うーん、別にそういうことはないかな。まぁ、確かに君は面倒くさそうだけど」
本心からそう言うと彼は唇をとがらせながら、それならどうしてそんなこと言うの、と聞いてきた。そんな顔を見ているとどれだけ性質が悪くてもまだまだ子供なんだなと思う。その顔は別に嫌いではないなと思うのだけど。
「だってほら、二十歳過ぎたらただの人って言うだろ? 今の君はおもしろそうだけど、将来どうなるかわからないし」
ね、と問い返すと憮然とした表情が返ってきた。そんなことを言われても、と言いたいんだろう。どれだけ急いだって一足飛びに大人になれるわけじゃない。
「あのさ」
唇を撫でながら彼はふ、と吐息を吐き出すと下から僕を見上げてくる。カン、と音をたてて彼は片足だけ一つ上の段に乗せた。その分僕と距離が近くなり、会話には適さないほどの近さで見つめてくる紅い目に自分の姿が映る。そこに映る自分の表情を見て苦笑いが浮かんだ。十代のころに何度となく青葉先輩に指摘されていた笑みをまた無意識に浮かべていたらしい。
自分で自分の表情がわかっていないというのはよろしくない点だとは思うのだけど、彼は僕の笑みは余裕から出てくるものだと勘違いしたようだ。違うのに。……いや、この状況を楽しんでいるなら余裕があるともいえるのかな。
「そう言うけど、俺が大人になるまで帝人さんのことを好きかはわからないんじゃない?」
なるほど、今手放すようなことを言ってもいいのかと言いたいらしい。確かに彼がこの先もずっと僕を想ってくれる保障なんかない。
だけどそれでいい。
「先のことなんか誰にもわからないよ。でも、そうだね。君なら僕の想像を超えてくれるだろうと思っているんだけど」
いつまで僕がこの街にいるかはわからないけど、彼なら僕の興味を池袋に縫い付けてくれる気がする。それだけの期待を高校生相手にしている自分を笑いたくなるが、彼が相手ならしょうがないかとも思う。なんせ僕が数年とは言え飽きずにチャットを続けている相手なのだから。
僕の言葉に彼はへぇ、と呟いてから嗤った。
「そんなに俺を買ってくれてるんだ?」
「それはもちろん。だって舞流先輩と九瑠璃先輩の弟だからね」
ね、臨也君? と今度は意図的に笑顔を浮かべながら言うと、彼は高い笑い声をあげた。
「なーんだ、やっぱり俺のことわかってたの?」
「そりゃあまぁ、ね」
折原臨也という名前はずいぶん前から知っていた。あの折原双子の弟で、青葉先輩が毛嫌いしている人間なんて興味を持たないほうがおかしい。外面のいい先輩が嫌がるからどんな相手かと思っていたが、喋ってみて納得した。単なる同属嫌悪だ。
「ひどいな、まるで知らない人間みたいに相手してたくせに」
俺を弄んで楽しかった? と尋ねてくるが、その言葉のチョイスはどうかと思うし、そもそも。
「君が奈倉だって名乗ったから乗ってあげたんじゃないか」
最初から本名を言えば僕だってもう少し別の対応をしたかもしれないのに。まぁ、あまり変わらないような気もするけど。
臨也君は邪気の無さそうな笑みを浮かべると後ろ向きのまま階段を二段ほど下りた。
「帝人さんのこと甘く見すぎてたかな?」
「そんなこと本人に聞かないでよ」
この顔だから侮られることには慣れているし、今更それに目くじらをたてるほど短気な人間でもない、つもりだ。
僕の応えに彼はふふ、と嬉しそうに笑い二段下から恭しく一礼してみせた。
「それじゃあこれからは帝人さんの要望に副うよう精進しようかな。 ――もちろん、ご褒美は期待していいんだよね?」
「さあ、どうだろうね」
「あはは! 冷たいねぇ、帝人さん!」
期待に応えられるほどの何かをあげられるかなぁと思って言った僕の言葉を彼は別の意味として受け取ったらしい。
それを訂正することもなく曖昧に笑う。好きなように解釈しておいてもらおう。
彼は僕の笑みを見るとくるりと背を向けスキップでもするように階段を降りていく。一番下に着くとくるりと振り返った。
「言い忘れてたけど、帝人さん。ようこそ池袋へ! あ、おかえりなさいかな? まあどっちでもいいか」
一緒にこの街で遊ぼうね、と朗らかに笑うと、彼は足取りも軽く去っていった。このまま家に帰るのか、僕の言葉を思い出して池袋の自動喧嘩人形のところに行くのかはわからない。
「この街で、か」
その後姿にひらひらと手を振りながら一人呟く。まるで池袋をおもちゃ扱いだ。先行きが不安と言うべきか、楽しみと言うべきか。まともな人間ぶるなら前者かな。
外はとうに暗くなっていて街灯の明かりが道を照らしていた。今何時だろうかと部屋に戻り、携帯の液晶を見てみると思っていたより時間は遅かった。今から食材を買ってきて自炊するのは面倒だし、外食に一人で行くのも煩わしい。
どうせだったら、臨也君を晩御飯でも行こうかと誘ってそのまま外に出てしまえばよかった。確か大トロが好きらしいから(舞流先輩情報なので確かだろう)露西亜寿司に付き合ってくれたかもしれない。あの子の真意はよくわからないけれど僕に好意を持ってくれているみたいだし、それなら奢っても良かったのになぁとぼんやり考えながらこのまま布団にもう一度潜り込むか、それともコンビニで何か調達してくるかを悩んでいると携帯のバイブ音が狭い室内に響いた。
「…………」
誰からだ、と液晶を見て笑ってしまった。あまりにもタイミングのいいこの着信はもしかしたらどこからか見ていたのかもしれない。そんな暇じゃないと思いたいんだけど。
ちょうど一人で晩御飯を食べるのは嫌だったし、彼に直接会うのは久しぶりだからさっきのことも含めて近況でも話すために(メールや電話は頻繁にしてるけどさ)食事にでも誘おう。
そう決めてから、今しがた話していた子と同じ穴の狢である先輩からの着信に通話ボタンを押した。
終わり