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涙
ぱたぱたと上下する度に音がしそうな程長い睫毛が体液にまみれ、ぽたりと彼の顎からしずくが垂れるのを見て僕はうわぁ、と心の中で呟いた。
うわぁ、この人でも泣くんだ。
号泣というほどではなく、さめざめという表現が適した涙のこぼし方は彼の整った容姿とあいまって本当に絵になるものだった。たぶんしばらく見てても飽きない。実際、彼が泣き出してから十分ほど経っているけど、隣で見ている僕はここから立ち上がろうという気にはなれなかった。
ず、と鼻をすする音すらみっともないものにならないんだから美形って得なんだろうな。
「……みかどくん」
八分前までは涙をただただこぼすのに必死で、五分前まではひきつった声で僕を罵倒して、二分ほど前からはぼたぼたと落ちる涙を隠そうともせず僕を睨みつけていた臨也さんが口を開く。
「きみ、なにかいうことあるでしょう」
ぐす、ぐす、とまるで小さな子供のようにしゃっくりと鼻水をこらえた声が恨みがましげに囁く。
なにか言うこと、何だろうか。それがわからず首をかしげながらもじっと彼の顔を見つめる。
ぐいと手の甲で臨也さんは一度涙をぬぐうが何度やっても目からこぼれる液体は止まらない。いつもより多分に水分を含んだ目というのは、なんというか、庇護欲とかそういったものをそそるんだろうなぁ、この人が相手じゃなければ。
臨也さん相手だと正反対の感情が浮かぶんだから仕方ない。嗜虐心とか、そういうの? よもや自分が他人相手にこんな感情を抱くようになるなんて。でもそれもしょうがない。だって臨也さんが泣いているんだもの。あの、いつも飄々として無敵で素敵な情報屋さんと豪語する、あの折原臨也が僕の目の前で!
「みかどくん、おれがないてるのがそんなにたのしいの?」
ええ、楽しいですよと応えたらなんとなく、いやな目に遭いそうなのでしょうがないから大丈夫ですか? と尋ねた。
「だいじょうぶじゃない、ぜんぜんだいじょうぶじゃない!」
そりゃそうだ。大丈夫だったら当の昔に彼は泣き止んでることだろう。
「ええと……大変そうですね」
心配したら怒られたので当たり障りなさそうな台詞を選んだつもりだったのに臨也さんはぐ、と唇を噛み締めた。どうやらこれもお気に召さなかったらしいが、こんな子供のような仕草をする彼は珍しい。知らず僕の心臓がきゅ、と掴まれたような痛みを感じた。罪悪感か、はたまた別の何かかはわからないそれはこの人といるとときどき感じる痛みだ。その痛みを無視し続けてもうどれくらいになるのだろう。
そんなことを頭の片隅で考えながらも僕の目は相変わらず臨也さんの泣き顔に釘付けだった。僕の部屋の畳に彼が流した涙の痕がてんてんと散っている。この部屋、フローリングだったらよかったのに。そうしたらどれだけ泣いたのか僕にも臨也さんにもわかりやすく教えてくれただろう。
畳って案外水分吸収するんだよなぁ、と臨也さんの顔から目を離さずにすり、と畳を擦った。
狭い部屋の中で聞こえる音は臨也さんが泣いている音と、パソコンの唸るモーター音だけだ。窓からは斜めに夕暮れの日差しが差し込んで、それが臨也さんの顔に当たっている。シチュエーションも完璧だ。本当にこの人は自分を演出するのが上手い。
「ちょっとあそびにきただけなのに、こんなめにあわされるとは、おもわなかった」
それは災難でしたね、と心の中だけで返事をしてから、そうだ、と思い立ち重い腰を上げる。本当はまだまだずっと見ていたいけど、こんなに泣いているのだから水分が足りなくなっていることだろう。
小さな冷蔵庫から麦茶を取り出しグラスに入れてから元の場所に戻り、下を向いてすんすんと泣いている臨也さんに差し出す。
「なに、おれにもっとなけっていうの」
帝人くんのいけず、ひどい、きちく、ひとでなし、とぶつぶつと言いながらも彼は一息でグラスの中身を飲み干した。やっぱり喉が渇いていたらしい。もう一杯お茶をいれてあげよう、そうしてもう少し、この絵になる泣き顔を見せてもらおう。
そう思ったのに、臨也さんは不遜にティッシュを要求してきた。
「タオルでもいいよ、ていうかタオルちょうだい。この間俺が持ってきた手触りのいいやつ」
「え、無理です。あれまだ洗濯してませんから」
「……はぁ? 何やってるの帝人君。洗濯くらいちゃっちゃとやりなよ」
「しょうがないでしょう、コインランドリーだって無料じゃないんですから」
それにタオルなんかでこの顔を隠されるのは困る。
「あぁ、もう……じゃあなんでもいいよ、顔拭けるならなんでもいい」
そこの水道借りるね、と立ち上がりかけた臨也さんの服の裾を引っ張ってそれを止める。それに臨也さんはまだ涙を垂れ流しながら、はぁ、とため息を吐いた。
「俺としてはね、君が俺のこの顔になんらかの罪悪感を感じて行動を起こすだろうと思ってこんな顔をさらしてやってるんだよ。ただ見てるだけなら鑑賞料払ってくれる?」
本気で自分の顔は金をとるに値するのだと思っているのだから恐ろしい。いや実際、お金を払ってでもこの人の泣き顔を拝みたいという人はこの街を探せばわりと簡単に見つかる気もするが。
「罪悪感って、僕がなんでそんなもの感じないといけないんですか」
「……本気で言ってる?」
く、と臨也さんが喉で笑った。泣きながら笑ってるのって変だと思うが臨也さんが変なのは今に始まったことじゃない。
「俺がこんな目に遭ってるのは誰のせいだと思ってるんだい?」
「自業自得です」
至極当たり前のことだ。突然臨也さんが僕の家にやってきて、いやそれはいつものことなんだけど、人がパソコンを触っていたらつまんないとかなんとか言いながらべたべたと後ろから抱き着いてきたあげく、服の中に手を突っ込んできたら驚くのは当然のことだろう。その驚きと混乱により僕がパソコンの近くに置いておいた催涙スプレーを臨也さんの顔面にぶっかけたとして誰が僕を責められようか。なんでそんな場所に催涙スプレーがあるのか? それはもちろん僕が用意しておいたからだ。青葉君にもらった護身用のスプレーなんだから身を守るのに使って何が悪い。いやまぁ、一度くらいはどんなものかを試したかったとか、臨也さんならこれくらいどうってことないだろうと思っていたとかはあるけれども。
「なんで、恋人の、接触を、そんなに、嫌がるの」
わざわざ一言ずつ区切って主張する臨也さんにいつものように返す。
「僕と、臨也さんが、いつ、恋人に、なったんですか」
そんな僕の答えに臨也さんはおもしろそうに目を細め、再度、タオルちょうだいと言った。
それに今度はこちらがため息を吐きながらもきれいなタオルを渡すと水道で顔を洗い始めた。ばしゃばしゃと水音を立てながら顔を洗う後ろ姿から視線を催涙スプレーに移して、それからパソコンの時計を見ると実に臨也さんが泣いていた時間は二十分にも満たなかった。
臨也さんが頑丈なのか、それとも催涙スプレーとはそもそもそんなものなのか。どうせいくら成分表を見たところで僕にわかるわけもないので、今度青葉君にでも試してみよう。もし効果がこの程度ならもうちょっと強力なものが必要だ。なんせ護身用なのだし。
「帝人君さぁ」
「何ですか?」
顔を洗い終えた臨也さんはタオルで顔をぬぐいながら僕に振り返った。目はまだ赤く充血したままだけど、水も滴るなんとやらだ。
「俺が嫌い?」
「いえ、別に」
好き嫌いの感情だけなら、たぶん好きの部類に入る。そうじゃなければ一緒にいられないだろう。ただそれ以外に付属する感情としては頼りになるとか、そういったものだ。先ほど臨也さんが言ったような恋人に対する何か甘いものは特に浮かばない。
「そう、別にいいけどね」
言いながら臨也さんは僕の目の前にくると少し顔を傾けた。それに惰性のように臨也さんとは逆向きになるように顔を傾けていつものようにキスをする。冷水で顔を洗ったらしく、触れた唇は冷たかった。
臨也さんの別にいい、は好きでも嫌いでも関係ない、どうでもいいということだろう。つまり、臨也さんにとって僕の感情は興味がないということで、それならやっぱり恋人同士になれない。
ちゅ、と音をたてて臨也さんの唇が離れる。紅い目に至近距離で見つめられるのは何度やっても慣れない。
そろそろと目を泳がせる僕に臨也さんは唐突に楽しそうに声をあげて笑い出した。何が楽しいのかわからない。わからないが、笑われておもしろくないのも事実だ。だけど僕が何かすればするほど臨也さんのツボに入ってしまうことがあるので、こういうときはただ黙って臨也さんが落ち着くのを待つに限る。
そうはわかっているのに睨むような目になってしまうのはしょうがない。
そんな僕の顔を見ながら臨也さんはタオルで目元をわざとらしくぬぐいながら(催涙スプレーの効果がまだ残っていたんだろうか)独り言のように呟いた。
「いいけどね、お子様のままごと恋愛に夢を見るのもさ」
終わり