自分がもらって嬉しいものをあげるのがプレゼントです。








 今日という日に何も期待していなかったといえば嘘になる。
 静まり返った部屋で迎えた三月二十一日の零時ちょうどに玄関のドアを叩く音。こんな非常識な時間に訪問してくる知り合いなんて、勝手にいなくなった幼馴染くらいしか思い当たらない。
 だからドアを開けたらどんな顔で立っていたとしても文句の一つや百くらい言わせてもらわないと。そうじゃないと祝いの言葉なんて受け取れるわけがない。そう思っていた僕の思考は玄関の向こうにいた予想外の相手によって真っ白になった。

「ど、どうしたんですか?」

 真っ黒なライダースーツにコミカルな印象を与えるヘルメットはこの街にいる人間なら誰でも知っている。
 セルティさんは僕の質問にさっとPDAをかざすことで応えた。僕がドアを開ける前から入力しておいたらしい。

『夜分にすまない。迷惑だとはわかっていたんだが、明かりがついていたからまだ起きてると思って』
「え、あ……はい。そうですね、明日も休みですから、そんなに早く寝ることもないかなとは考えてましたけど」

 でも彼女が来ることははっきり言って予想外だった。数える程度ではあるけどセルティさんが僕の家に来たことはある。でもそれはダラーズ絡みの事件が起こっているときのみだ。
 そもそも僕は自分の誕生日を教えているわけもなく、だからセルティさんがPDAに文字を打っている間にふと目に入った、彼女の影が支えている荷物は何らかの非日常要素の一つだということもわかっていた。わかっていたが、僕の携帯にもダラーズの掲示板にも特に何かあったような情報はなかったはずなのにと少し眉間に皺を寄せた僕の目の前にPDAが差し出される。

『預かってもらいたいものがあるんだ』
「預かってもらいたいもの?」

 文字をそのまま読み返してしまう。それくらい僕にとっては意外な申し出だった。そもそもセルティさんなら僕の力なんて必要なわけもなく、というか何か大事なものなら僕なんかよりもっと確実に守ってくれる知り合いや場所がいくらでもあるだろうに、一体どういうことだろうと考える僕の沈黙をどう受け取ったのか慌てたようにセルティさんがPDAを操作した。

『本当にすまない夜更けにおしかけてしかも頼みごとってなんだよと帝人が不快に思うのもよくわかるでも帝人にしかたのめないんだ』

 句読点をいれるのも惜しいと言わんばかりの文字の羅列に目を通してから自然と口角が上がる。頼みごと、の内容はよくわからないけれど、いつもお世話になっていることも確かだ。その人が困っているなら手を差し伸べるのが普通の反応というものだろう。それが首無しライダーであるとか、僕を選んでくれたんだとか、そういった自分の中の何かを煽るような事柄が付属していなかったとしても、僕は同じことを言うに違いない。そんな言い訳じみたことを考えながら僕はセルティさんに問いかけた。

「ええ、僕にできることならやりますよ。どういったことですか?」

 PDAを見ながら文字を打つ姿は何かためらうような、どう説明するべきかと悩んでいるようにも見えた。
 僕がひとまず話を聞く体制であることにさっと顔を上げると慣れた手つきで文字を打つ。

『助かる。少し長い話になりそうなんだ。その前に一つ確認しておきたいんだが、帝人には猫アレルギーはないか?』

 アレルギー? それも猫?

「そういうのは特には……」
『苦手な動物はいるか? 猫科は大丈夫か?』
「はぁ、猫は別に好きでも嫌いでもないですね」

 答えに納得したように頷いたセルティさんは持っていた荷物を僕とセルティさんの間に置いた。どこからどう見ても変哲のないダンボール箱だ。その箱を指先でセルティさんがとんとん、と叩くと。

「!」

 隙間から黒い毛に包まれた小さな何かが出てきた。よくよくそれ見てみると桃色の肉球がくっついている。先ほどの話から察するにどうやら猫の手らしい。

「その猫を預かればいいんですか?」

 猫の手は箱を叩いた原因を探るように動いていたけれど、しばらくするとまた中に引っ込んでしまった。箱を開けないと全貌は見えないが、僕でも抱えられる程度の大きさに入っているんならそう大きくはない猫だろう。それを一時預かるくらいなら特に問題はない、が、どうしてわざわざ僕のところに。
 不思議に思う僕と箱を抱えたセルティさんの間でにゃーと間抜けな声があがった。やっぱり箱の中にいるのは猫だ。
 セルティさんは懐から何かを取り出すとそれを僕に見せた。薄型の携帯電話っぽいそれに文字が書いてある。

《やあ、こんばんは帝人君》
「……は?」

 僕の間の抜けた声に応えるようにまた猫が鳴く。それから数秒ほど経ってからセルティさんの持つ端末が振動し、新しい文字が現れた。

《こんな夜中に悪いね。でもこっちも非常事態なんだ》

 意味がわからない、と眉間を皺を寄せた僕にセルティさんはPDAを見せてくれた。

『信じられないかもしれないが……この猫の名前は折原臨也と言うんだ』
「…………」
 ネーミングセンスの悪さを指摘すべきか、それとも何か意図があるのかわからない。わからないが。
「あの……ひとまず中に入りませんか?」
 長い話なら、おそらくPDAよりパソコンに文字を打つ方が早いに違いない。





 ことの起こりはほんの数時間前なのだそうだ。
 いつもなら情報屋から運び屋の仕事というのはそういきなり来るものではないらしく、セルティさんの予定を一応は確認してから仕事を依頼されるらしい。
 ところが今回はメールで信用できる運び屋にしか依頼できないと唐突に、かつ一方的に仕事を押し付けられ、苦情とともに値段もふっかけるべきかと思案しつつもセルティさんは指定の場所に行ったのだという(本当にいい人だ)。
 そこにあったのが先ほどまでセルティさんが持っていたダンボール箱だったのだそうだ。しかし問題の依頼人の姿はなく、どこに運ぶという支持もきていない。どうしたものかと思ったセルティさんの目の前で箱が開き、中から出てきたのは黒猫だった。しばらくその黒猫と見つめ合い(首が無いのに見つめ合うってなんだか変だなと思っても突っ込んじゃいけないんだろう)、もしかして荷物違いだろうかと考えだしたころにその猫がにゃあと鳴いた。その声に反応するように、箱の中にあった先ほどセルティさんが見せてくれた携帯端末が反応したそうだ。

『驚いたよ。この機械、ニャウリンガルって言うらしい。猫の鳴き声から今の気持ちを表してくれるものらしくって』

 ニャウリンガルって。一昔前にバウリンガルっていう機械があったよね、確かすぐにブームは終わったけど、と思う僕の目の前でセルティさんは続けてパソコンに文字を打つ。

『何かヘマをやらかしてこんな姿になったらしい。しばらく安全な場所に置いておいてもらいたいっていうからどこがいいか聞いたんだが、猫にとってはPDAの文字が小さすぎてよく見えないらしいんだ』

 そういえば猫って動体視力は優れているけど、視力自体はあまりよくないといったことをテレビか何かで見たような気がする。あまり興味がなかったからきちんと見てはいなかったけど、まさかそんな知識が役に立つ日がくるなんて世の中はうまいことできているものだ。
 でもヘマをやらかしたって、一体どんな目に遭ったんだろうか。
 そんな僕の疑問に答えるようにセルティさんが文字を綴る。

『事情を聞こうにも私の質問はこの状態の臨也にはわからないし、人体に影響を及ぼしているなら新羅に見せるのが一番だと思ったんだが』

 そこでセルティさんは頭が痛いというように一度手を止めて、左右に頭を振ると、解剖しようとしたんだ、と文字を入力した。

「解剖、ですか……」

 僕らの会話を聞いているのかいないのか、黒猫(全身真っ黒で白い首輪をつけている。臨也さんらしいと思う)は布団の上でのんびりと横になっていた。よほど窮屈だったのか、玄関のドアを閉めた途端箱から飛び出し、にゃーにゃーと鳴きながら座布団を要求してきた臨也さんに妥協案として布団を提供した結果だ。

『そうだ。まったく新羅のやつ、仮にも友達相手に何を考えているんだ』

 憤るセルティさんには悪いが解剖したくなる気持ちもわからないでもない。というか、猫から元に戻すにはこの臨也さんを調べないといけないし、そうなると人体(猫体?)実験も必要になってくるんじゃないだろうか。もちろんそんなことは言えないし、僕自身としては知識もないのに解剖なんてしたくない。

『そういうわけで、うちに置いておくのは危険だから誰か別の人に預かってもらおうと考えたんだ』

 女の子には預けられないし、静雄は論外。門田達も見つからない。そうなるとこの猫を嫌な顔をせず預けられる相手は帝人しか思い浮かばなくて、と続けられた液晶画面に苦笑してしまう。消去法で選ばれたらしい。確かに、ほかの人たちと比べて僕はただの人間でしかないからしょうがないのだけれどと思う僕にセルティさんはすまない、と文字を綴った。

『あまり、帝人や杏里ちゃんには臨也を近づけない方がいいとはわかっているんだ。こんな姿とは言えこいつは折原臨也でしかない』
「……? 臨也さんはそんなに悪い人じゃないと思うんですけど」

 ほかの人に対してどうかは噂でしか知らない。それに僕にとっては臨也さんという存在は困ったときに情報をよこしてくれる、確かなライフラインの一つだ。
 僕の言葉にセルティさんは何かパソコンに文字を打とうとして、しばらく躊躇するような素振りを見せてからぎゅ、と拳を握ってから、すまないと文字を並べた。

「さっきから謝ってばかりですよ、セルティさん」

 僕にはとっては何をそんなに気に病んでいるのかがよくわからない。頼られたことは素直に嬉しいと思うし、臨也さんに世話にもなっている。それに人が猫になるだなんて普通に生きていたら一生出会うことのない事象だ。やっぱり人が多い街は違う。いや、首無しライダーという非現実的な存在がこういった不思議な現象を呼んでいるんだろうか。類は友を呼ぶともいうしと考えながらセルティさんに、任せてくださいと言った。

「ペットを飼ったことはないんですけど、意志の疎通はできるんですから大丈夫です」

 セルティさんは僕の手を握り何度もぶんぶんと上下に振った。たぶん話せたのなら恩に着るとかそういったことを言っているんだろうなぁと思っていたらその通りの言葉をパソコンに打っていた。

『だけど何かあったらすぐに連絡してくれ。私は後をつけられた覚えはないけど、安全な場所に連れて行けと言うからにはもしかしたら何かやっかいごとが起こるかもしれない』
「やっかいごと、ですか?」

 知らず高鳴る心音を無視して問いかけた僕に、にゃあとそぐわない声が応えた。
 さっきまで丸くなっていたはずの黒猫が僕の膝の上に前足を置き、ビー玉のような目で僕の顔をじっと見つめていた。

『やっかいごとなんか帝人君のところに持ち込むわけがないだろ。こんな姿になったのは別に恨みを買ったからじゃないよ』

 セルティさんが差し出したニャウリンガルにはそう書いてある。

『本当に声だけにしか反応しないんだな』
「そうですね……パソコンの文字も見えないんですか?」

 臨也さんを抱き上げパソコン画面を見せたけど嫌がるようにふいっとそっぽを向かれてしまった。そんな黒猫の態度にセルティさんは、少しは読む努力をしろとか、世話になるんだから礼くらい言ったらどうだとかそういったことを文章にしていたけど臨也さんはそれに尻尾をぶんぶんと振ることで応えていた。
 確か猫って犬と違って、嫌なことがあると尻尾を振るんだっけと思いながら黒猫を抱えなおす。ぐり、と頭を胸に押し付けたあと僕の膝の上で丸くなった。
 セルティさんはそんな仕草に少し考えるように首をかしげてから、また文字を打ち始めた。

『どうせなら臨也の事務所にその黒猫ごと移動してもいいかもしれない。オートロックだから誰かたずねてきても開けなければいい』
「事務所にですか……いえ、それはやめておきます」

 黒猫を膝の上に乗せたままそう返すと液晶にどうして、と文字が並んだ。

「実は今日、人が来るかもしれないんです。だからできればここから離れたくなくて」

 来ない確立のほうが高いけど、とは心中でだけ付け足しておく。
 僕の言葉にセルティさんはそれ以上は強く言わず、何かあったら連絡してくれ、できるだけ急いでくるからと文字を見せた後、僕が頷いたのを見てから立ち上がった。
 玄関に向かう彼女を見送ろうと、黒猫を膝から降ろそうとしたが不満そうな顔で見られる。まさか僕の膝の上で寝るつもりだったんだろうか。布団よりは暖かいかもしれないけど、それはちょっと遠慮してもらいたい。
 何か不満を言われる前に黒猫を抱き上げ布団の上に置くと、ふぅ、とまるでため息のような吐息が聞こえた。猫ってため息つくんだろうか、いや猫とは言え臨也さんだしそれくらいするのかもしれない。
 ぐいぐいと何か確認するように布団を前足で押す黒猫をそのままに玄関に立っていたセルティさんを見送るべく立ち上がり、ドアの方へ近づくとPDAを差し出された。

『帝人、やっかいごと云々関係なく相手するのが面倒くさいと思っても連絡してくれ』

 冗談にしか見えないそれに笑ってわかりましたと返す。
 階段を降りてバイクに乗り、エンジン音ではなく馬の嘶き声を響かせて去っていくのを見送ってから玄関のドアを閉めた。念のため鍵もかけておく。
 さて、対話ならできるのだからと振り返り少し話をしてみようとセルティさんから預かったニャウリンガルを片手に布団の方へ視線をやると、黒猫は僕に背中を向けるように丸くなっていた。

「臨也さん?」

 呼びかけても返事はない。尻尾を不満そうに左右に揺らすだけだ。眠いのかもしれない。

「寝るんですか?」

 尻尾が返事をするように一度上下した。しゃべるのも嫌らしい。

「寝るんだったらもう少し端に寄ってください」

 布団の真ん中に陣取られると僕が寝れない。そういって猫の腰あたりを押してみたが不満そうにこっちを見るだけでどこうとはしてくれなかった。
 ……猫ってこういう生き物なんだろうか。それとも臨也さんだからこうなんだろうか。
 どうやら退く気がないらしい姿にため息をひとつ吐いてから、先ほどセルティさんが使ったまま電源が入っていたパソコンに向かう。
 まだ眠くはないし、ちょっとネットで猫のことでも調べてみよう。そういえば猫って何を食べるかもよく知らない。まさかキャットフードを食べろとは言えないし、そうなると焼き魚か何かだろうかと思いながら検索ページを開いた。






 ぐい、と何かに押される感触がした。それから逃げるように寝返りを打つ。それでもその何かは追いかけてきてぐいぐいと僕の頬や額あたりを押してきた。なんだかちょっと冷たいけど、やわらかい感触は痛くはない。
 昨日あれからしばらくネットサーフィンをした後、布団の上で丸くなって寝ていた臨也さんを少し移動させて(尻尾は振っていたけど特に文句は言われなかった)横になった。黒猫が寝ていた場所だけ妙に暖かいと思っているといつの間にかその布団を暖めていた臨也さんがかけ布団の中にもぐりこみ、僕の腰あたりで丸まっていた。
 男同士で一緒の布団なんて気持ち悪いだけだが猫の姿ならそこまで拒否感はない。何より暖房器具なんてものがないこの部屋ではいい湯たんぽみたいなものだ。
 そのぬくもりにつられるように眠りについたのは明け方に近い時間だったような気がする。猫のことを調べるつもりがついつい別のことに気をとられて、あっという間に時間が過ぎていた。
 どうせ今日は休みなのだし惰眠をむさぼらせてほしい。そう思うのに、何かが僕に訴えるように顔を押してくる。いい加減にしてほしくて布団の中にもぐりこんだ。少し息苦しいけど仕方ない、と思ったのに。

「……うっ」

 のしっと布団の上に何かが伸し掛かってきた。何かも何も、僕の部屋で動く生き物なんて僕以外にはあの猫しかいない。重量自体はそんなにないのに、的確に頭の上を狙って乗ってくるせいで寝るどころじゃない。ちょっと、いやだいぶ……うっとおしいかもしれない。

「何のようですか、臨也さん」

 しぶしぶ布団から這い出ると黒猫がずいっと顔を近づけてにゃあと鳴いた。枕元に置いておいたニャウリンガルがそれに反応する。
《おはよう帝人君。と言っても、もう昼だけどね》
 携帯の時計を見ると正午まであと少しという時間だった。さすがに寝すぎかもしれないと上半身を起こすと、黒猫は僕の膝に片方の前足を置き、もう片方の前足で僕の頬あたりをぐいっと押してきた。どうやらさっき顔に感じた感触はこの桃色の肉球だったらしい。

「おはようございます……昨日、寝るのが遅かったもので。何か用ですか?」
《そういえば遅くまでパソコンを触ってたね。用も何も、そろそろ背中とお腹がくっつきそうだから起こしたんだよ》
「はぁ、そう言われても僕の家には猫にあげれるようなご飯なんてないんですけど……」

 白ご飯は冷凍保存しているものもないし、食パンでもいいだろうか。たぶんジャムは……食べないだろう。パンの上に乗っけるのに適したもの(ハムだとかチーズだとか)そういったものもない。あ、納豆があったかな。

《心配いらないよ、帝人君》

 立ち上がって台所(と言うにはささやかなものだけど)に立った僕の後を追いかけてきた黒猫が鳴く。

《そのへんに昨日セルティが、俺が入っていた箱と一緒に持ってきた袋が置いてあるはずだ》
「袋……? あ、これですか?」

 冷蔵庫にもたれるように置いてあったどこかのスーパーの袋と思しきものが目に入る。その中をのぞくと魚の干物が十匹ほど入った、透明な袋があった。袋には商品名が書いてある。

「うるめいわし……」
《なかなか美味いんだよ、それ。国内産で値段に適した味だ。あ、頭と内臓とってくれる? 帝人君にあげるからさ》
「…………」

 猫だったら気にせず頭から食べればいいのに。僕の掌を目いっぱい広げたくらいの大きさの魚の干物を、ため息を吐きながらも言われたとおり頭と内臓あたりを手でちぎり一応皿に乗せて目の前に差し出すと、一言にゃーと鳴いて口をつけた。ニャウリンガルを見るまでもない。たぶん、いただきますと言ったんだろう。ついでに僕にお礼のひとつも言ったかもしれない。
 その姿を見ながら臨也さんがおいしいと評したうるめいわしを一つつまむ。こんなにあるんだし、僕の昼食兼朝食にさせてもらってもかまわないだろう。
 一口かじると確かに僕がいつも行くようなスーパーで購入する魚の干物とは違う、濃い味がした。これで味噌汁を作ったらおいしいのかもしれない。
 一匹目を食べ終えた黒猫は二匹目を要求し、言われるがままに差し出す。僕が三匹目を食べ終えたころに満足したのか黒猫は毛づくろいを始めた。魚くさくならないのかな。

「あの……臨也さん」

 名前を呼ぶとなんだい、とでも言うように僕の顔を見た。

「どうしてその姿になったのか、教えてもらってもいいですか?」
《知りたい?》

 巻き込まれたのだからそれくらいを知る権利は僕にだってあるはずだ。
《たいしたことじゃないよ。昨晩はちょっと特殊な取引先を相手にしていてね。海外の製薬会社……あぁ、矢霧製薬と関係しているかどうかは聞かないでくれ。知りたいなら別料金だから》
《……無言ってことは特に必要はないってことかな。まあ、今の君には特に必要ない情報だからその選択は正解だ》
《その製薬会社なんだけど、ちょっとした情報操作を俺に依頼してたんだよ。とは言っても少し株価をいじる程度のものだけどね。それが向こうが期待していた以上のものだったらしくて、俺としては片手間にやっていたものだから、感謝されても、とは思ったんだけど》
《そのお礼にって代金をもらったときにさぁ、お茶を出されたんだよ。特に何も考えずにお茶を飲んだ俺も悪いんだけど、それを飲んだらこの有様さ》
「……はぁ」

 なんだろう、何か違和感がある。

「一応、聞きますけど……それならどうやってセルティさんと連絡を取ったんですか?」
《あぁ、別にすぐにこの姿になったわけじゃないからね。どうやらお茶を出すときに、本当は俺に謝礼金を渡した製薬会社の社員に飲ませたかったらしい。内部トラブルってやつだ》
《間違って俺が飲んだのを知った中の人間が慌てて対処しようとしたんだけど……この姿を見てわかるとおりだよ》
「つまり、臨也さんはただ巻き込まれただけってことですか?」
《そんなところだね》

 前足を舐めて毛づくろいする黒猫の姿を見る。あまり大きなトラブルだとは思っていないようにしか見えず、そのままそれを口にすると、黒猫が尻尾で畳をパシンと叩いた。

《俺がこの姿になったことは、向こうの不手際だし、解毒剤を今作っているところさ。だったらそのまま会社にいればいいのにって思うかもしれないけど、この姿だといろいろ不安でね》
《信用できる運び屋に解毒剤ができるまで匿ってもらおうと思ったんだけど、新羅のやつが俺を解剖しようとしたのは予想外だったな》
「……本当に?」

 あの臨也さんの数少ない友人である新羅さんの思考が、本当にわからなかったのだろうか。
 僕の疑問に黒猫はマーキングするように足に擦り寄ってから鳴き声をあげた。

《ああ、嘘だってやっぱりわかるかい?》
《さすが帝人君だ。ああ、馬鹿にしてるんじゃないよ? 俺と新羅の関係性を把握しているなと思っただけさ》
《君の言う通り、あいつならそれくらいやりかねないだろうなとは思ったよ。困ったセルティが俺をここに運ぶだろうってこともね》

 ニャウリンガルにつづられる文字に無意識に僕は感嘆の吐息を吐き出していた。
 ある程度先まで他人の行動を予測できるのはやはり人間観察をよくしているからだろうか。他人を使うことに慣れている彼の手腕にまったく憧れないといえば嘘になる。だけど。

《首無しライダーは人ではないけど、ずいぶん人間らしい感情を持つようになったと思うよ。そのおかげで行動の予測が随分しやすくなった。昔に比べて、だけどね》
《製薬会社の人間も自分たちの不手際で俺がこんな姿になったことに右往左往していたよ。大事な取引相手に致命的なミスをおかしてしまったんだ。どうやってこれを挽回しようか、いや、いっそなかったことにしてしまおうか。そんな葛藤を見るのは悪くない》
《人、ラブ!》

 最後の言葉でいろいろ台無しだ。
 どうやら話しているうちにヒートアップしてきたらしい。どうにもこの言葉を叫んでいるところを想像すると、折原さんより甘楽さんのイメージが強くなる。いや同一人物なんだけど。
 それにしても、と思いながらニャウリンガルから黒猫へと目をやると、僕に背を向けてパソコンの向こう側の窓の方へ歩いていってしまった。一通り話をして満足してしまったのかもしれない。じっと窓の外を見つめながら左右にゆっくりと尻尾を揺らしている姿をぼんやり見ていると、玄関のドアの向こうから階段を上がる足音が聞こえてきた。
 こんこん、とノック音が響いた後に、宅配でーすと明るい声が続く。
 印鑑を取り出してからドアを開け、大きめのダンボール箱(昨日セルティさんが持ってきたものより大きいものだ)を渡された。重いですよという言葉に頷きながら荷物を受け取る。う、確かに重い。
 伝票を見てみると実家からだった。たぶん今日に合わせて贈ってきてくれたんだろう。
 印鑑を押して玄関のドアを閉めてから箱を開けると中からまず出てきたのはカップ麺だった。

「…………」

 その下には昆布や鰹節、箱の中をほっていくと一番下にジャガイモがあった。日持ちするものばかり詰め込んだんだろうと思う、思うけど、いや別に、誕生日プレゼントを期待していたわけじゃないんだけど、と考えながら一緒に入っていた手紙を開ける。中には元気にしているかとこちらをたずねる文面、それから図書カードが入っていた。

「このご時勢に図書カード……」
《何がきたんだい?》

 いつの間にか黒猫は窓からこちらに戻ってきていた。箱のふちに両足を引っ掛け、ふんふんと中を確認するように鼻をひくつかせている。前足でぺちぺちと中に荷物を叩いていた。

「両親から荷物が届いたんですよ」
《図書カードも?》
「はい。現金だと何に使うかわからないからってことだと思うんですけど……」

 金券ショップにいけば現金に換えてもらえることは知っているが、図書カードに添えられていたカードに目を通してから、ありがたく本を買うのに使わせてもらおうと決める。
 実家でもネットばかりしていた僕のことを心配してくれたが故のプレゼントだと言うのなら仕方ない(ネットばかりせず本でも読めということらしい)。下手によくわからない本を贈られるよりずっといい。

「臨也さんはどんな本読むんですか?」

 問いかけてみたが黒猫は僕を見上げてから再度箱の中に視線を戻してしまった。特に意味のない質問だから別にいいのだけど、自分の話したいことしか話す気がないらしいその行動には少しため息が出そうだ。
 そもそも僕は臨也さんのことをよくは知らない。考えてみれば、チャットでは随分前から知り合いだったというのに知っていることと言えばいろんな方面の知識がやたらあることと、妙にテンションが高いことくらいだ。職業やどこに住んでるかなんて知らなかった。まぁ、ネットでのつながりなんてそんなものだろうけど。
 その程度のつながりなのに、こんなトラブルがあったときに僕を避難先候補の一つにいれてくれていたのは悪い気はしなかった。もっといろいろな話をしてくれたらなおさらいいんだけど、それは元に戻ったときにでも聞いてみよう。どうやらこの姿である以上、猫としての特質の方が強いらしい。きままだし、さっきからジャガイモの入った箱の中に入りたそうとしているし。猫ってそんなに箱が好きなのか、と思いながら箱に夢中になっている黒猫をそのままにパソコンの電源をいれる。昨晩結局猫のことをあまり調べられなかったし、今日はすることもないからネットサーフィンでもしていよう。




 インターネットって時間泥棒にもほどがあると思う。

「………」

 モニターの右下に時計は表示されているけど、夢中になっていたらあんな小さな字なんて見ていられない。
 猫のことを検索している内にいつの間にか動画サイトを見ていて、小さなころころとした子猫のムービーなんかを見ているうちに気づけば部屋の中は随分と暗くなっていた。
 晩御飯の用意くらいしたほうがいいだろうかと黒猫を探すと、しきっぱなしにしていた布団の上で丸くなっているのを見つけた。

「あの……臨也さん、晩御飯どうしましょうか?」

 昼間に食べたうるめいわしはまだ残っている。それを食べてもいいかもしれないと、思っている僕に黒猫がにゃあと鳴く。

《トロ。大トロ》
「……トロ、ですか」
《そう。君がパソコンに夢中になって子猫のみゃあみゃあなんて声に夢中になっている間も大人しく待っていてあげたんだ。食べたいものを要求する権利くらい、俺にあると思わないかい?》

 夢中って。だってふてぶてしく横たわる黒猫より、画面の向こうで愛らしく飼い主の手にじゃれつく子猫のほうがかわいいに決まっている。

「貧乏学生に無茶言わないでくださいよ」
《貧乏ねぇ……なかなか稼いでるって聞いてるけど?》
「誰にですか……」

 ネットビジネスで得た収入は家賃と生活費分程度だ。余分なお金なんてそうないし、それを自分の数十倍は稼いでいるであろう臨也さんのために使うことに納得がいかない。

「臨也さん居候なんですから、もう少し僕に遠慮してもいいと思うんですけど」
《言うねぇ……冗談だよ。今日の晩御飯代は後で俺に請求してくれたらいい。何なら寿司の出前でもとるかい? あ、俺のはわさび抜きで注文よろしく》

 寿司かぁ、と考えながら着替えを取り出す。出前でいいと臨也さんは言うけど、どうせなら見て自分で好きなものを買いたい。
 着替え終えてから留守番しててくださいね、と黒猫に言うと尻尾が一度だけ見送るようにパタンと上下した。
 尻尾で返事をされてもさほどイラつかないのはところはさすがだと思う。
 猫だから許されることって案外多い。






 明日が平日だからか露西亜寿司はさほど混み合っておらず、すぐに注文を包んでもらえた。ちょっとした好奇心からサイモンさんに臨也さんがいつも何を頼んでいるか聞いてみると、トロか大トロだとこれまたわかりきっていた答えが返ってきた。あの人それ以外食べてないんだろうか。いやそんなわけはないだろうけど、他の注文内容を霞ませるくらいトロをオーダーしているんだろう。そういえば以前街の往来で寿司ラブ! 俺はトロが好き! とかなんとか叫んでいたっていう噂を聞いたことがあるようなないような……なんにせよ、平凡な僕とは一線を画した世界で生きていると思う。

 家に帰ると黒猫はさっと立ち上がり、僕の足元に懐いた。
「ご所望のトロを買ってきましたよ」
《ご苦労様。そんな帝人君にはご褒美に酢飯の部分をあげるよ》
「………どうも」

 猫だから酢はあまりよくないのかもしれない。寿司の上部分だけ皿にとりわけ目の前に置くともくもくと黒猫は食べ始めた。
 それを横目にしながら上で包んでもらった寿司を口にする。今日は少し豪勢な晩御飯にしてもいいじゃないかと思いつつも、トロのみ食べるほうがリッチな気がして少し複雑だ。
 食べ終えた後に薬缶に火をかけ、熱いお茶をいれてパソコンの前に座る。寒いなと思ってこの部屋の唯一と言ってもいい布団をかぶると黒猫に迷惑そうな顔をされた。自分が乗る場所だといいたいのかもしれないけど、敷き布団の上でも掛け布団の上でも変わらないんじゃないだろうか。
 そう思っている僕の顔をじっと見ながら黒猫はパソコンの前に座る僕の膝の上に無言で座った。何度か居心地のいい場所を探すように動いていたけど、しばらくすると落ち着く場所を見つけたのか丸くなった。その喉をくすぐるように撫でる。ごろごろと音がして、そういえばこの猫がこうやって喉を鳴らす姿を見たのは初めてだと思い当たった。

「…………」

 なつくようなその仕草に眉間に皺を寄せてしまったけど、ある考えに思い至って頬を緩ませた。
 起動したパソコンの画面を見ると、今日が終わるまであと三時間程度ある。

「たぶん日付変更間際に来るんだろうなぁ……」

 呟いた独り言に猫は何も言わない。言うわけがない、とはもうすでに理解していた。
 布団と膝に乗った猫はほどよく暖かく、ネットビジネスやダラーズの掲示板をめぐるのにさほど苦痛を感じなかった。そんなことをしているうちに時計の針は回り、あと十分ほどで今日が……二十一日が終わると頭の片隅で思ったのをまるで見計らったように、ドアがコンコンとノックされた。
 肩から布団を下ろし、その上に猫をそっと置いてやる。それからドアを開けると、そこには予想通りの人物が立っていた。

「やあ、こんばんは帝人君」

 昨晩ニャウリンガルで見た文字と同じ言葉を発する、黒のコートを羽織った人間はにこにこと笑顔を浮かべていた。

「こんばんは、臨也さん」
「あはは、やっぱりあまり驚いてないね?」
「ええ、まあ」

 黒猫は当たり前だが僕の部屋の布団の上で眠っている。

「そもそもおかしいでしょう」
「人間に猫がなるっていうのが? それを言ったら運び屋なんかどうなるのさ。非現実の塊みたいなもんだろ」

 肩をすくめて笑う彼に違いますよ、と少し唇をとがらせるように呟く。

「穴が多すぎです。ザルみたいですよ。臨也さんが本気で僕を騙すんならもっとうまくやるだろうなと思っただけです」

 昨晩の時点では気づかなかった。セルティさんが僕を頼ってくれたということに高揚していたせいかもしれないし、黒猫があまり話さなかったというのも大きい。
 ところが今朝、僕に事情を説明している時点でおや、と思った。
 臨也さんがわざわざ僕にどういった仕事をしているかということを、事情を説明するためとはいえ言うだろうか。たとえば僕が彼の仕事をなんらか手伝っているとか、そういったことがあるならわからないでもない。だけど僕と臨也さんのつながりはリアルでの付き合いよりネット上での付き合いのほうが長いくらいで、そのときですらどんな仕事に携わっているのかをつかませなかった人だ(例えばセットンさんは夜の仕事をしているんだろうなと検討をつけられたのに、甘楽さんはそれすらわからなかった)(情報屋なんて仕事に時間は関係ないのかもしれないけど)。
 それにあのニャウリンガルだって妙だった。猫が声をあげてからしばらくしてから表示される文字。たぶん、僕の話した声に猫が鳴いたときにだけ臨也さんのほうで操作していたんだろう。それならセルティさんと意思の疎通ができないのも納得がいく。だけど。

「小型カメラくらい用意したらよかったんじゃないですか?」

 おそらく黒猫がつけている白い首輪に盗聴器でも仕掛けてあるんだろう。ついでにカメラでもつけておけばよかったのに。

「了承も得ずに勝手にプライベートを覗き見るのはよくないかと思ってね」
「…………」

 なんだか真っ当なことを言っているような気がするのは僕がこの池袋に毒されている証拠だろうか。真っ当な人間はそもそもこんな猫に変身しましたなんていう冗談は言わない。

「言っておくけど、冗談のつもりではなかったんだよ。帝人君にちょっとしたサプライズをプレゼントしようと思ったんだけどさ……途中で気が変わったんだ」

 臨也さんが口元を三日月型に歪める。

「君が待っている相手を俺にしてやりたくなってね」

 誰を待ってたかなんて簡単に予想がつくよ彼だろ帝人くんもやさしいよね自分たちを置いてけぼりにした相手のことを信じて待ってるなんて健気だと思うよ本当にでもさぁ大事な友達なら誕生日にくらい顔を見せるなりプレゼント持ってくるなりしてもいいのにねぇ住所だってわかっているんだから宅配便で送ったっていいわけじゃないかああでもそうか君がいつも一緒にいる彼女だって今日が君の誕生日だってわかってるのに一緒にいないんだものね君たちの関係ってそんなものなのかな。
 まくし立てるような言葉。反論しようとして口を動かそうとしたができなかった。
 それはじわじわと僕の心中を蠢いていたものが明確な言葉の刃になったもので、僕が目を背けていたことだ。
 誕生日くらい、正臣と園原さんと三人で過ごしたかったのに、なんて当の本人たちにはとてもじゃないけど言えない。きっと正臣は正臣の考えがあってここにいられないんだから、戻ってきたときにたくさん文句を言って、次の誕生日のときに今日の分を祝わせてやるとか、それならきっと園原さんも一緒に楽しく過ごせるはずだとか、そういう思いはあったはずなのに臨也さんの口から明確な現状を語られるといつの間にか握っていた拳に力が入ってしまう。
 布団の上にいた猫は、いつの間にか僕の足元に来ていた。臨也さんの声で起きたのだろう。その猫を抱き上げながら、猫カフェで借りてきた猫だとかなんだとかそういった話をしていたけどどうでも良かった。

「臨也さんは……」

 口を開いた僕を楽しそうに見ている臨也さんにぽつりと、呟いた。

「猫の姿のほうが愛されると思いますよ」

 鳴き声だけならどれだけ聞いてもここまで嫌な気分にはさせないだろう。
 僕の言葉に臨也さんが二、三度瞬きした後楽しそうな、低い笑い声がした。近所を慮ったのか、それともいつものあの人を馬鹿にしたような高笑いが単なるパフォーマンスの一つであって、実際の彼はこういう露悪的な笑みをする人間なのか。そんなことはどうでも良い。
 僕の嫌味なんかこの人にとっては子猫が爪をたてた程度にしか感じないことはわかっていても、ほんのわずかでも一矢をむくいてやれれば、という思いから出た言葉はやはりというべきか、特に不快感は示さなかった。

「そうかい? 残念だね、猫じゃなくて! ああでも、猫のふりくらいはできるからやっぱり人間でよかったよ言うべきかな」
「?!」

 言い終えたとたんズイっと顔が至近距離に近づいてきた。驚いて一歩下がろうとしたのに臨也さんが僕の右腕を掴んできた。ぐいと引き寄せられ、緋色の目が間近に迫る。
 何をされるかわからずぎゅ、と目を瞑ると鼻に何かが触れた。

「知ってる? 猫って親愛の証に鼻と鼻をくっつけて挨拶するらしいよ」
「え……は………あ?」

 くすくすと楽しそうに笑う声の吐息が唇にかかる。普通に生きてきて、こんな至近距離で他人と顔を合わせることなんてまずない。顔が熱くなってきた。
 唐突に腕が開放される。たたらを踏んで後ずさる僕に臨也さんは笑ってみせた。

「もしかしてさっきの、怒った? だとしたらごめんね」
「……いえ、別に」
「せっかくの誕生日なんだから、もっと楽しいことを考えればいいのにって思っただけなんだけど」

 この人はこういうところが卑怯だ。人の傷口に塩を押し付けておいて、こうやってその傷を舐めるようなことをす―――ん?

「え?」
「何?」
「今、誕生日って……」

 僕は臨也さんに誕生日を教えた覚えはないのに(この人に教えてないという言葉は無意味だとはわかっているけど)。

「ああ、君の誕生日、今日だろ? だからさっきも言ったろ。プレゼントしようと思ってって」

 臨也さんはそう言うと携帯を取り出した。

「誕生日おめでとう。……大丈夫、まだ二十一日だ」

 ぎりぎりだったけどね、と言いながら臨也さんが見せてくれた携帯は僕の目の前で二十二日に変わった。

「え……あの」
「それじゃあ俺はお暇するよ。目的は果たしたからね。ああ、そうだ。あのうるめいわしはあげるよ。悪くなかっただろ?」

 じゃあね、と臨也さんは猫を抱きかかえたまま背を向けて階段を降りて行ってしまった。
 僕はそれを呆然と見送るしかなく、というか、あの人一体何をしにここへ、僕の誕生日を祝いにって、何で臨也さんが僕の誕生日を祝ったりするんだ、と混乱しながらも彼の背中が見えなくなってしばらく経ってから気づいた。

「あ……トロの代金」

 もらってない、が今更追いかけて請求することなんてできるわけがない。

「……まぁいいか」

 きっとまた街で会えるはずだ。そのときに請求してそれからついでに、そうついでに、臨也さんの誕生日を聞いておこう。

「自分のほしいものをプレゼントするのがいいってよく言うよね……」

 今日のこの日に彼からもらったなんとも歪なサプライズにどうやってお返しをするべきか、そんなことを考えながら僕はドアを閉めた。






 余談とはなるのだけれど、翌日二十二日のこと。
 園原さんに誘われて放課後映画を見に行くことになった(誕生日はちゃんと覚えていてくれたらしい)(僕が二十一日は誰かと過ごすと思って気を遣ってくれたのだそうだ)
 考えてみれば、こうやって園原さんに誘われたのは初めてのことかもしれない。いつも僕が誘うばかりだ。……深く考えるのはやめよう。
 池袋の街を二人、どうにも微妙な距離を保ちながら、なんとか会話を続けようと四苦八苦している僕らの目の前に突然空から黒バイクが降ってきた。

「……セ、セルティ……さん?」

 どうやらすごく急いでいたらしい。この街の名物とも言える彼女は驚いている僕にぐいっとPDAを押し付けるように見せてくれた。

『昨日、誕生日だったのか?』
「え、あ、はい。そうです」

 誰から聞いたんですか、とたずねるよりも早くセルティさんが黒バイクに突っ伏した。ヘルメットがゴンと音をたててぶつかる。あの黒バイクって変幻自在だから何かぶつかっても音なんてしないんじゃないかと思っていたがそうでもないらしい。

「どうかしたんですか?」
『すまない帝人!!』

 ガバっと起き上がったセルティさんが迅速に文字を打つ。

『知らなかったとはいえ、せっかくの誕生日を臨也なんかにつぶさせるなんて、あぁ遅れたが誕生日おめでとう! 昨日のは臨也のいたずらだってわかったんだが、だから新羅は解剖なんて冗談を言ったらしくて、いやでもただの猫を解剖だなんて』
「セルティさん、落ち着いてください」

 支離滅裂な文章に目を通している僕の隣で園原さんがセルティさんの手をそっと握った。
 その声に我に返ったようにまたPDAに文字を打ち込む。

『昨日のお詫びと言ってしまうとあれなんだけど、良かったら今日、晩御飯を食べに来ないか?』

 ケーキも買ってお祝いしよう、と続く文面に口が緩む。それを隠すように口元を手で覆った。
 映画を見た後なら、と言おうとした僕よりも早く園原さんが口を開く。

「じゃあ、晩御飯の材料とケーキを買いに行かないといけませんね」

 やわらかく微笑む園原さんの横顔を見ながら、うん、そうだね、映画を見た後で、という言葉は続けられなかった。この時間から見ようと話していた映画を見てしまうと買い物に行く時間がなくなってしまう。
 セルティさんと園原さんは二人で晩御飯の献立を―――鍋であることは確定らしいので何鍋にするかを―――話していた。
 自分のお祝いをしてもらうのだから僕が不満を述べることなんてできるわけがない。ないけれど、どうしてこのタイミングでセルティさんが現れたんだろうか。
 僕の誕生日を知っている、昨日会ったばかりの人を脳裏に思い浮かべた。

『帝人は何が食べたい?』
「そうですね……魚以外がいいです」

 セルティさんにたずねられた僕は一瞬浮かんだその考えを脇に追いやった。わざわざセルティさんに臨也さんが言うメリットがない。
 じゃあ肉だな、と考え込む園原さんとセルティさんと一緒に幸せな悩みに頭を使うことにした。













終わり