スバラシイ日々 サンプル







03-07





 三月も半ばを過ぎれば肌に当たる風は冷たさを随分と和らげる。春一番に近い突風が吹くこと もあるから暖かいとはとても言いがたいが、一ヶ月ほど前と比べると随分過ごしやすい気候だ。まだ街中ではコートを着ている人間を何人も見かけるけど気温が 上がるらしい明日はぐっと少なくなるんじゃないかな。それでも、夏と比べてこの黒コートに注目する人間は少ないと思うけどね。情報屋としての記号みたいな ものとして昔から身につけているコートは定期的にクリーニングに出しているし、春夏物と秋冬物で材質が違うから見かけよりは気温が高い日でも快適なもの の、周囲の人間と大きく違えばそれだけで目を引く。ちらりと視線を向けてくる人間もいれば被写体の許可もとらずに写真を撮ってSNSにアップしちゃうよう な輩もいるから、そういった反応を見るのも楽しいので暖かくなる日が待ち遠しい。
「もう少し暖かくなったらあの子を少しくらい連れ出してもいいだろうしね」
 ぽつりと呟いた言葉は独り言だ。横断歩道の手前、信号を待っている間に口にした言葉は行き交う車の音にかき消されて誰かの耳に入ることもない。信号に目を向けると赤から青に変わるのにあと三十秒ほどかかると表示が浮かんでいた。そこから視線を自分の手元にへと移す。
  俺が持っているのは無地の白い箱だ。てっぺんに持ち手がついているそれは大抵の人間が一目見て中身が何か予想がつく見目をしている。これを見てケーキ以外 の発想が出てくるやつがいたら相当ひねくれていると思うよ。実際、この中には生クリームがたっぷりと乗ったケーキが入ってるんだしさ。
 人口の多 い都内には様々な甘味を取り扱っている店がひしめき合っている。その中でも俺が今日訪れた店は最近海外から日本へ進出してきたばかりのケーキ屋だった。日 本で一番地価が高いと言われている場所に店舗を構えているだけあって平日の昼間だというのに店内のカフェスペースに空席はなく、優雅にお茶とケーキで時間 を潰す人間で溢れていた。年齢層も性別もバラバラな彼らを以前ならじっくりと観察していただろうに、今日はさっさとケーキを買って店を出たんだから人間、 変わるものだなって思うよ。これも愛の成せる業なのかもしれない。
 そんなことを思いつく自分を嗤い、青信号へと変わると同時にケーキが崩れない ように平行に保ちながら歩き出す。たぶんあの子はこれを持ち帰ったときにきれいなままだろうが崩れていようがまったく気にしないんだろう。でもほら、せっ かくの誕生日ケーキなんだよ? わざわざ電車に乗ってまでここに来たのも、こってりと甘いものより質のいいフルーツを使ったりスポンジに洋酒を効かせたり したものの方が好みなあの子のためだ。当の本人は口に入ればどれも一緒、なんて思ってそうだけど(昔から食べ物にあまり頓着する子じゃなかった)実際のと ころはやっぱり好みの味付けの方が食も進むことは一緒に暮らしているんだからすぐにわかる。食事の用意をしているのも俺だしね。
 食べ物って見た目も大事だ。せっかくあの子のことを考えて用意しているんだから食べる気力が削がれるようなビジュアルになるのはやっぱり避けたい。本当は外出なんてあまりしたくないのにこんなところまで出かけてきたんだしさ。
  コートのポケットに入れていた携帯を取りだしロック画面を確認すると新規の着信は入っていなかった。もしあの子に何かあれば……例えば部屋から出ようとし たらここに連絡が入るようセキュリティシステムを設定してある。その通知がないということは恐らく眠っているか、また窓の外でも眺めているんだろう。高層 マンションの上階から見る地上の風景はあの子のいい暇潰しみたいなんだよね。俺も時間があるときは隣に座ってみているんだけど、人間が行き交う姿を見てい るのは楽しいもののやっぱり表情や声が聞こえる距離で見守る方が俺は面白いかな。でも当の本人があまり外に出ることへ積極的じゃないんだからそうやって窓 から眺めるしかないよね。
 携帯の液晶に表示された時刻は家を出てから四十分ほど経過していた。それを確認してから、駅の電光掲示板へと目を向ける。目当ての電車が特に遅延情報も出ていないことを確認してから俺は改札へと足を向けた。



「ただいま」
 玄関の戸を開けて室内へかけた声に返事はない。わかっていたことなので大して気にもせず、スリッパに足を通してリビングへと向かう。
  ここで暮らすようになってからもう、三ヶ月ほど経った。以前新宿に構えていた事務所より随分手狭に感じるのはあの場所と違って天井がファミリー向けの物件 のせいだと思う。あの場所自体、デザイナーズマンションなんて呼ばれる作りだったから変わっていたんだけどね。いかにも儲かっています、なんて雰囲気があ るからわりと気に入ってたあの場所は一時期ファイナンシャルプランナーの事務所として住所を公開していたせいでちょっと厄介な相手にも知られている。防犯 にもそこそこ気を遣っていたからそう簡単に押し入られることはないとはいえ一緒に暮らしている相手がいる今、あまり危ない場所に住居を構えようとは思えな かった。それに、もうあそこを解約して随分時間が経っているしさ。たぶん新しい住民か企業が入っていることだろう。もしかしたら俺を逆恨みしてるような連 中が突然乱入することもあるかもしれないけど俺にはどうしようもないしねぇ。
 わりとどこにでもある、一般的な2LDKの一室は寝室に、もう一つの部屋は仕事の書類やファイルを置いている。ほとんどパソコンと携帯用電子端末があればある程度管理できるとはいえ機械は突然故障することもあるからアナログな記録方法は中々侮れない。
  もちろんデータと違って何かあったときに咄嗟に持ち運べないという不便さはあるさ。でもそれも些細なことだ。万が一火事にでもなって全部燃えたとしても情 報の大半は頭に入っているから困ることはない。人を雇ったときに一から口頭で説明するのが面倒だなと思うくらいで、でもそれもしばらくは他人の手伝いが必 要なほど仕事を入れる気はないから杞憂だ。そう考えてみれば別にあれらの紙の束をここに保管しておく必要はないか。どこかトランクルームでも借りてまとめ て置いておくのもいいかもしれない。当然、防犯対策がしっかりしすぎて表には広告を出せないようなところを探さないといけないけどさ。一見するだけじゃわ からないような言い回しで書いてあるとはいえ、時間をかけて読み解けばファイル一冊でしばらく遊んで暮らせるくらいのお金が手に入るような情報もあの中に はあるわけだし。
 一部屋空くならあの子のための部屋を作ってあげるのもいいかもしれない。小さな子供が使うような玩具を並べて、ベッドもキッズ向けのデザインにしてやったら、そう大きくない体躯を丸めて眠る姿が見れるんじゃないかな。
  だけどそんなことをしてもあの子は喜ばないか。何せ、この三ヶ月の大半を窓から下を眺めて過ごしているような子だ。そんな部屋を用意しても一歩も入ろうと しないに違いない。だったらわざわざ資料を別のところに運び出す無駄な時間を過ごさずに、あの子の側にいたほうがいい。俺がいないと何もできないんだし さ。ほんの一時間程度この家を離れただけでも心配で何度か携帯を眺めていた自分を思い返し、喉で笑ってしまう。本当に、あの子はどんな姿であっても俺を飽 きさせないんだからすごいよ。
 笑みを浮かべたままリビングとダイニングが一続きになっている部屋の戸を開ける。角部屋な分、同じマンションの他 の部屋よりは広くとってあるが、少しばかり変わった形をしているこの部屋は扇形になっていた。外に面している部分は全て天井から床まで窓硝子が嵌め込んで ある。その内の半分はベランダが備え付けられ外と出入りができるようになっているが、もう半分は窓を覗き込めばすぐに地上が見える作りになっている。ここ を壁にしなかったのは採光を意識してのことなんだろうけど、はめ殺しになっているせいで開けて風を通すことも窓の汚れを拭き取ることもできない。一般家庭 が暮らすには掃除がしにくい作りだ、くらいの感想しか出ないんじゃないかな。とはいえ、随分と上にあるこのフロアの窓が汚れることもそうそうないから年に 数回、専門の人間に頼めば済むんだろうけど。それを呼べない程度の生活レベルの人間はそもそもこんなところに住居を構えないんだろうし。
 最初にここへ来たときはそれくらいしか思わなかったが、今はこの窓の有用性を実感している。俺が、というより同居委任が、だけどさ。
  買ってきたケーキを片手に持ったまま採光用の窓の方へと向かう。正確には、その窓にぺったりと懐いている人間の方へ、だ。室内の温度は適温が循環するよう になっているし、乾燥しないように空気清浄機兼加湿器もきちんとつけているから部屋の気温に不満はないと思うんだけど、冷たい窓にああやってもたれかかっ てるってことはもしかして暑いんだろうか。
「帝人君」
 名前を呼んでも振り返ることなく、じっと窓の外を眺めている。今の彼はちゃんと名前を認識しているはずだから聞こえてない振りをしているんだろう。昨日ちょっと怒らせちゃったから仕方ないか。
  そっちがその気ならと、じっと帝人君の顔を眺めることにした。初めて会ったときからもう、五年近く経つのかな。今日でこの子は二十歳になるはずだ。お酒も 呑めるし煙草を吸うこともできる。成人したというのに相変わらず幼く見える容姿のせいで、外でそういったものを嗜んだら身分証明書を求められるかもしれな いけどね。前にかけていた眼鏡があれば少しは年相応に見られたかもしれないけど、今はそれもつけてないしさ。俺が取ったんだけど。だって側にいない間に身 につけるようになったものなんてあまり気分が良いものじゃない。
 それに、顔だけじゃなく身体だってどうもこの歳頃の子と比べたら見劣りすると思 うんだよねぇ。今着せている服は俺の持っていた黒の、前でボタンを留めるタイプのシャツにウエストが紐で調節が利くタイプのボトムだ。身長の伸びが止まっ てから体格に大きな変化はないので、この子くらいの歳の子とそう大きく差はないと思うのだけど帝人君が身につけるとダブついているように見える。元々骨格 自体も細身だし筋肉は付きづらい、ってそういえば昔言っていたかな。初めてこの子を抱いたあの頃と比べれば少しばかり身長は伸びた、のかもしれない。でも 目線が変わったようには思えないんだよね、と考えながら帝人君の額に触れる。突然触ってきたことに対して不満の声が上がらないのもいつものことだ。
 指先に感じる体温は特に熱いとは思わないから熱はないようだ。どうやら単に窓の下を見ることに熱心になりすぎてこんな体勢になっているらしい。
 額に触れさせた指でそのままゆっくりと頭を撫でる。短い黒髪は毎日俺が洗ってあげてることもあって指通りがいい。あのボロアパートで暮らしていた頃は風呂場がないから銭湯に通い、備え付けのシャンプーで洗ってるって言ってたっけ。
 以前とばかり比べてしまうのは今のこの子が随分変わってしまったせいなのかもしれない。
「帝人君、ケーキを買ってきたけど食べる?」
 俺の言葉にゆっくりと顔をこちらに向ける。深い海の底のような色をした目がこちらに向けられたものの、その焦点はどこか合ってないような気がした。眼鏡がないからピントが合わなくて、というのも理由の一つなのかもしれない。
「けーき?」
 舌足らずな発音で俺の言葉を繰り返し、ゆるりと首を傾げた。それににこりと微笑みかけてやる。
「そうだよ。ケーキ。今日、帝人君の誕生日だろ?」
 たんじょうび、と復唱しているが、単語の意味がわかっているのかどうか怪しい。その証拠に彼の目が何かを考え込むように揺れていた。それがなんだか可愛くて自然と口元がほころんでしまう。