臨也さんはそんなこと言わない。
13-17
今の俺が住んでいる場所は東京二十三区内ではあるものの、少しばかり中心地から外れたような所だった。スーパーやコンビニはあるし、駅前もそこそこ栄えているとは思うものの新宿や池袋の人口密度に慣れていると、時間のせいもあるだろうが人通りが少なく感じる。
新宿に事務所兼寝床を構えていたはずが一体何があってこんな所で暮らすことにしたのか。それも恐らく、自宅とやらで待っている子が原因なんだろう。我なが ら悪趣味と自覚している人間観察には不便なここを選ぶようになるほどどうやら今の俺はその子に夢中らしい。まあ、携帯の暗証番号まで伝えてるくらいだから ね、それも当然か。その子になら中身を見られても困らない、ってことなんだから、俺の仕事や趣味の悪さを承知の上で一緒にいるんだろう。さっき電車の中で 見た携帯の中身から察するに、相変わらず情報屋の仕事も悪趣味も変わりないようだったしさ。
そんな風に自分の身近にいることを許してる相手、と いうのであれば自然と異性を想像するのは当然のことだ。自分の薬指に指輪はないから結婚はしていないようだが秒読み段階くらいではあるのかもしれない。そ れにしても俺が結婚、ねぇ。全く想像がつかない。八年間という月日の長さがもたらす結果に苦笑が浮かぶ。
相手は一体どんな人間なんだろうと最寄 り駅から自宅までの道すがら考えてみる。年上なのか、年下なのか。外見にこれといった好みはないけど、自己責任で体調管理ができている人間ではあってほし い。それ以外の好みとしてはまぁ……人間であればいいか。その程度にしか俺は生涯の伴侶となるかもしれない相手の想像ができないようだ。
「人ラブ、ってね」
でもそれは興味がないからじゃない。人間を愛せる俺だからこそ、どんな子であっても愛情を持って接することができるとわかっていた。ああでも、逆はどうな んだろうね。俺の帰りを待っているらしいその子は一体俺のどんなところに惚れ込んで一緒にいるのか聞いてみるのは面白そうかな。まるで夢を見ているかのよ うな美辞麗句が出るのか、それとも忌々しげに罵詈雑言を吐きながらそれでも離れらることができないんだと言うのか。どちらでも構わないし見るのが楽しみ だ。
「ここかな?」
内ポケットから携帯を取りだし、地図が表示している場所を確認する。どうやら間違いはないらしい。
目の前 にあるのは特にどうということはないマンションだ。エントランスには入らず、ポストが並んでいる場所に足を向ける。最上階は八階となっていた。周囲を見て も同じくらいの高さの建物しか見当たらないから、もしかしたら制限されているのかもしれない。マンション自体の大きさと、並んでいる名前の数から察するに ファミリー向けの物件のようだ。
並んでいるポストの中に自分の名字を見つけ、エントランスへと踵を返す。オートロックの数字盤に八から始まる数字を入力した。
電子音が響いてから数秒、マンションの自動ドアが開く。インターフォンのカメラ越しに俺を視認して開けてくれたんだろうけど、一言くらい声をかけてくれてもいいだろうに。でも同居しているのであればそんなものか。
入ってすぐのところに見えるエレベーターに乗り八階を押す。上昇している間に視線を周囲にやってみると掃除が行き届いているのがよくわかった。建物自体も新しいようだ。
八階の廊下は当たり前だけど一階とあまり変わらない。ドアの数が二つ少ないだけだ。恐らく一室を下の階と比べて広くとっているんだろう。その分と景観も含めて家賃は高くなっているに違いない。
そうやって周囲を観察しながら自分の名字が書かれている表札がついたドアの前で足を止める。鍵は持っていない、が、下のインターフォンを鳴らしているのだ から俺が来ることはわかっているんだろう。このままドアを開けても文句を言われることなく迎え入れてくれそうだけど、一応呼び鈴は鳴らしたほうがいいのか な。向こうにだって心の準備もあるだろうしさ。何せ俺は記憶喪失になっているわけだし、自覚はないが今までの俺とは違うだろうからね。
そう思って右手を上げた瞬間、それを見ていたかのようなタイミングで目の前のドアがゆっくりと向こう側から開いた。
「おかえりなさい。思ったより遅かったですね、迷いましたか?」 そうかけられた言葉に両目を瞬かせる。
ドアノブに手をかけたまま俺に声をかけてきた相手は細い銀フレームの眼鏡をかけていた。短めの前髪に、利発そうに見える青みがかった黒瞠と小柄な体躯…… 小柄、と言っても俺より十センチ弱ほど小さいだけだ。女の子であればむしろ背が高い部類に入る。そう、女の子であれば。
俺を出迎えてくれたのは どこからどう見ても男だった。一瞬もしかしたら、かなり慎ましやかな胸の持ち主なのかもしれないと考えたがそんなわけはないか。着ている半袖のシャツから のぞく細い二の腕は筋張っているし、履いている黒のボトムスだってタイトなデザインではないがある程度、身体のラインはわかるものだ。どれだけひいき目に 見ても女性の肉付きじゃない。今聞いた声だって女性のものだと言うには無理がある。
「どうかしましたか?」
自分でも不躾だという自覚があるくらいに上から下までを見つめても彼は小首を傾げて不思議そうな顔をしているだけだ。
「ねぇ、」
君がこの家に住んでるの、と聞くべきだろうか。だとしたら八年後の俺が選んだのはこの少年ということになる。外見から年齢はいまいちわからないが、二十歳 を越えているということはないだろう。高校生くらいだろうか。中学生、ではないと思う。一瞬脳裏に未成年淫行剤という言葉がよぎっていったが問題は年齢 じゃない。性別だ。一体いつの間に俺は趣旨替えをしたんだろうと九六ヶ月の月日に思いを馳せたくなる。いや別に、同性愛について何かもの申す気はないさ。 人の趣味に口出しするほど野暮じゃない。だけどこの時間軸の俺がこの子と付き合っているのだとしたら、俺もこの子と一緒にいなきゃいけないってことだろ? それも恋人として。
「立ち話もあれですし……ひとまず中に入ってください」
そう言って目の前の少年が促すように身体を少し斜めにしたのでそれにどうも、とだけ返して言われるままドアをくぐる。玄関はファミリー向けだから狭くはない。
その場で靴を脱ぎ、邪魔にならないように隅っこに揃えて置くと彼は俺が置いた場所と反対側の壁側に自身の靴を寄せた。もしかしたらそこが定位置なのかもしれない。
「奥へどうぞ」
十数足らずも歩けばリビングが見える廊下にはドアが四つ並んでいた。内二つはトイレとバスルームとして、あとは一般的な間取りを考えるなら八畳程度の部屋かな。今は戸が閉まっているから中がフローリングなのか絨毯なのか、はたまた畳なのかはわからなかった。
「お茶をいれますけどコーヒーと紅茶、どっちがいいですか?」
「どっちでもいいよ」
少年は、そうですか、と頷くとリビングと続きになっているキッチンへと姿を消した。食器を用意しているらしい微かな音を耳にしながら、奥に置かれていたソ ファに腰掛ける。どうやらここはダイニングリビングとしてデザインされているらしく、キッチン側には食卓と思われるテーブルが置かれていた。そちらにある 椅子は四つ。俺が座っているソファも三人掛けの大きなものと一人がけのもの、それにスツールが一つずつ。どちらも家族向けの数としか思えない。俺の真正面 には大きなテレビが設置されていた。これで映画を見たら中々臨場感がありそうだ。
その電化製品と俺との間にはガラスの天板が置かれたローテーブルがあるんだけど、そこの上に紙が数枚乗っている。こんな無造作に置いてあるなら重要機密、とかそういったものでもないんだろう。
座っているソファの座り心地や、室内に置かれている調度品から察するに俺の仕事は八年経っても順風満帆らしい。それなら尚のことどうして未成年なんかを側 に置いているのかと首を傾げたくなる。何か弱みでも握られているんだろうか。とてもそうは見えない、人畜無害そうな、むしろ逆に俺に騙されてそうな雰囲気 に見えるんだけどねぇ、と考えて気付く。ああそうか、そういう方向もあるのか。一体八年後の俺が何を企んでいたのかは知らないが、あの子を籠絡しないとい けない理由でもあったのかもしれないね。それが何か、なんてわからないし、いつ自分の記憶が戻るのかわからない身としてはそれを継続する理由は見当たらな いから、もう少し話してみてから出て行ってもらうのも有りかもしれない。ホテル代くらいは出すさ。
「はい、どうぞ」
そう言って彼がキッチンから持ってきたのはシンプルなグラスだった。目の前に置かれたそれの中にはたっぷりの氷と牛乳で割られたアイスコーヒーが入っている。湯を沸かしている様子はなかったから冷蔵庫に入れておいたものなんだろう。
「あぁそれ、見ておいてくださいって言えば良かったですね」
俺の隣、ではなく、直角の位置にあった一人がけのソファに腰掛けながらそう言った彼の視線の先はローテーブルだ。A4サイズの紙を片手でまとめた彼が、ど うぞ、と俺に手渡してきた。どうぞ、って言ったって、今の俺にはわからないような内容なんじゃないかなと考えたことでも伝わったのか少年は言葉を続けた。
「それ、僕の情報ですから」
「……」
「名前くらいは自分で名乗った方がいいですかね」
そう言って彼は少しばかり憂鬱そうに自分の名前を口にした。
「りゅうがみねみかど、くん?」
復唱すると彼が眼鏡の奥の双眸を緩め、本名ですよと付け加える。よくそう聞かれるのかもしれない。確かに仰々しい響きではあるが、仮に偽名を使うのだとし たらそこまでたいそうな物を選ぶこともないだろうという名前だ。それに偽名らしさで言えば俺や俺の妹達の名前だってひけを取らないと思う。
「それは別に疑ってないさ」
「そうでしょうね。あなた相手に偽名を使っても意味はないですし」
その言葉に視線を手渡された紙から彼へと僅かに向ける。顔をグラスに伏せたまま、あなたならすぐに調べられますから、と独り言のように呟く声を耳にしながら紙に書かれた情報へ目を落とす。
そこに並んでいた文字の羅列はどうということのないものだった。彼の身長や体重、本籍地に両親の職業や彼の現在の通学先……
「……来良大学?」
自分も通っている、いや通っていた、とこの場なら言うべきなのかな。ただ反応したのは馴染みのある名前だからじゃない。
「君、大学生なの?」
紙と彼とを視線に交互に向ける。書かれているデータには彼が理系の学部に所属していることも記されていた。確かにこう、理数系が得意そうな雰囲気だよね。眼鏡のせいかもしれないけど。
「そうですよ。何なら学生証、見せましょうか」
言葉と共にローテーブルの上にグラスを置き、彼はリビングの隅、玄関へと続く廊下に近い場所に置いていた鞄へと足を向けた。それに目を眇め、戻ってきた彼 が提示した来良大学の生徒であることを示す小さな手帳を眺める。大学の学生証なんて偽造しようと思えば比較的簡単な部類だ。クレジットカードと一体型に なっていたり、ICチップが入っているものが多いから一概には言えないが、手帳タイプのこれならすぐに作ろうと思えば作れる。
「本物ですからね」
そう言った彼の顔を見てみると眉間に皺を寄せていた。
「生年月日、そこにちゃんと書いてあるでしょう?」
言われて数字の羅列に目を落とす。確かに彼の産まれた年と月日が書かれていた。俺の感覚としてはこの年に誕生した子はまだ中学生だ。
サンプル了