箱庭恋愛理論〜入門編〜 サンプル
04-08
季節の巡りは歳を重ねる事に早く感じるもので、ついこの間までは夏だと思っていたのにあっという間に短い秋を乗り越え、気付けば防寒具をしっかり身につけておかないと寒さに身を縮こまらせるような気温になっていた。先日まで入院していたせいで外気にあまり触れていなかったから、より季節が早く過ぎ去ったように感じるのかもしれない。夏用のコートから冬用のコートへクローゼットの中身を衣替えをしてしっかりと寒さに備えているとは言え、雪が散らつくのを見ると夏の暑さが恋しくなる。とはいえ、俺がそんな風に夏に思い入れのようなものができたのも全ては昨夏のおかげだけど。
自分が撒いた火種が燃え広がり、池袋の街全体を覆う様は見ていて壮観だったよ。せっせと暗躍していた甲斐があったというものだ。多少の代償はあったけどね。でもそんなもの、楽しい見世物を鑑賞するために払ったと考えれば惜しいとは思わない。
ただ以前のように反吐が出るほど楽しいお仕事を続けるのは少し難しい状況にはなっていて、それならしばらくのんびりと隠居生活でも満喫したらいいと大人しくしていた。俺が何もせずにいるってかなりレアなんじゃないかなぁ。新羅には嵐の前の静けさだとか、安閑恬静なんて臨也がしているわけないだろ、とか言われたけど俺だって静かな生活を楽しむことくらいある。オンラインでの情報屋は続けていたけどさ。
ネット上でなら偽名を使っていてもバレることはない。拠点も新宿から別の場所に移動したから、前の事務所しか知らない人間には新宿のオリハラは死んだんじゃ、なんて言われていたみたいだ。
俺の生死がどう噂されようとどうでもいいんだけど、でもそれの原因がシズちゃんだってことには納得がいかない。
どうやら最近のシズちゃんは以前と比べて随分と落ち着いているそうだ。化け物の落ち着く、というのがどういったレベルなのか知らないけどさ。どうせ頭に血が上れば器物破損だとか自動販売機をぶん投げたりだとか、そういった人間離れしたことをやっているのだろうし。
池袋に長く暮らしている人間であれば、俺とあの化け物の追いかけっこを一度くらいは見たことがあるから、シズちゃんのそんな様子と俺が姿を見せないこととを組み合わせて俺が殺されたんじゃないかと考えたようだ。
せっかくわざわざ街中で、あれだけの群衆を前にシズちゃんとやり合うところを見せたっていうのに、結局ギャラリーのほとんどは罪歌に操られていたせいで記憶が曖昧な人間が多かったらしく、その結果、俺があいつに殺されそうになっていたことを知っている人間は思っているよりも少ない。皆無なわけじゃないから噂も『新宿のオリハラは死んだ』じゃなく、死んだ『んじゃないか』なんて不明確なものになってるんだろうけどさ。あれだけ苦労したのにシズちゃんを人殺しの化け物として見せつけることができないどころか、宿敵をようやく倒して安穏とした生活を続けているヒーローみたいじゃないか。そんなものは怪物の身には分不相応だと思うよ。
直接まともにやりあってよくわかったけど、やっぱりシズちゃんは人間じゃない。あれだけ俺が手を尽くしても倒れないどころか、入院すらしていないっていうんだから異常と言っていい。
その異常が人の皮を被って生活しているんだから虫酸が走る。
あまり苛々するのは身体によくないから、それならあんなやつの情報なんて聞かないのが一番なんだけど、愛海ちゃんがせっせと教えてくれるので嫌でも耳に入ってしまう。俺への嫌がらせに燃やす情熱がそこまであるならもっと真っ当な生き方をすればいいのに、なんて俺には言われたくないであろう言葉を口にしないのは、それを言ってしまえば俺ができるだけシズちゃんの名前を耳にしたくないと言っているのと同義になるからだ。そうなると、愛海ちゃんはより一層熱心に話を聞かせてくれることになるだろう。適当に聞き流して、波江さんの代わりに色んな雑務をしてくれているおかげで一緒にいる時間が自然と長くなっている彼女が別の嫌がらせをそのうち思いついてくれるのを待つのが最善かなと近頃は思っている。重傷で床に臥せっている相手の枕元で延々そんな話を聞かせていた彼女がいつ飽きるのかはわからないけどね。ま、いいさ。いずれまた化け物退治はすることになるだろうから、それまでは愛海ちゃんに代わりにシズちゃん観察でもしてもらうことにしよう。俺は穏やかな生活を謳歌するって決めたからね。
とはいっても俺だって一日中家の中に引きこもっているわけにもいかない。生活に必要な買い物は全て宅配で済ませられるとはいえ、外に一歩も出ない生活は身体が鈍ってしまう。それに、新宿の情報屋は休業しているとはいえ、俺の新しい事務所を知っているお得意さん相手の仕事は変わらず続けていた。引っ越しました、なんてお知らせもしていないし、家族にも今の居所を教えていない(厄介な妹達に自分の身を売られるようなことをされたくないからね)のに一体どうやって見つけてきたんだか。そのへんを突っ込まないのは大人のやり方だけどね。俺だって言われなくても自分が識りたいことは知りたいタイミングで勝手に調べるんだし、お互い様だ。
今は休業中なんですよ、と一応言っても『そうですか』と相づちを打った上で当然のように仕事の話をしてくるから、任侠系の人間に目をつけられるような馬鹿なことは表立ってはしばらくしないでいようと、断らずに今まで通り情報の売買はやっている。
懇意にしてる相手に渡す情報収集をしている傍ら、ときおり暇潰しに池袋の街の情報を集めることはあった。でもそれはまたあの場所で何かしようというものではなく、燃えさかった炎の後にどんな消し炭が残っているのか知りたかったからだ。純粋な好奇心でね。だから生の情報を得るためにも、ときどき街へあまり目立たないように一人で出かけていた、わけだけど。
その日は、夜になれば雪が降ると天気予報で言われるくらい寒い日だった。深夜に降り積もれば翌朝の電車が相当混み合うんだろうなぁなんて通勤をすることもない身で考えつつ、池袋の街を歩いていた。いつものトレードマーク代わりに身につけていた黒に白のファーがついているコートではなく、シンプルな黒のロングコートに眼鏡をつけているだけで案外、俺だとは気付かれないものらしい。知り合いが見れば一発でわかるんだろうけどね。あとは化け物の嗅覚かな。そのへんは、鉢合わせないように気をつけていた。俺だって退院して病み上がりの状態で鬼ごっこなんてしたくなかったし。
後をつけられてるなっていうのはわりと早い段階で気付いていた。そのまままっすぐ今の事務所に戻れば俺の居所がバレてしまう。別にバレてもいいんだけどさ。でもほら、せっかく隠居生活を楽しんでるんだからしばらくは放っておいてほしいじゃないか。藪を突いて蛇を出すのは好きだけど、一方的に押しかけられるのは遠慮してもらいたい。
それにしてもこんな風に尾行されるなんて俺は何かしただろうか。逆恨みには慣れているがここ最近で、こんな露骨な気配を漂わせる尾行が下手な素人を相手にした覚えはない。もしかしたら隠れる気がないのかもね。それなら対面して話を聞いたほうが早そうだ。
そうと決まれば、と進行方向を百八十度回転させ、ずっと俺の後ろをついてきている人間のほうへと足を向ける。ここでようやく気付いたが思っていたよりも相手は小柄だ。コートのフードを被っているせいで性別はわからないが、もしかしたら子供なのかもしれない。それならあのお粗末な尾行も仕方ないか、と思っていると、その相手は俺が向かって来たことに気付いて慌てたように走り出した。
普段であればそうやって逃走した相手をわざわざ追いかけたりなんかしない。ちょっと暇をもてあましていたのが悪かった。自分から隠遁生活を楽しもうと決めたとはいえ、あまりに刺激がない日々にちょっとばかりに、危機管理能力が麻痺していたんじゃないかと後になって思うよ。あと、その走り出した相手の足があまり速くなかったのも原因の一つかな、あれくらいなら今の俺でも簡単に捕まえられる。
そう計算して俺は利き足を蹴り出し、目の前を走っていく相手を追いかけた。冷たい空気が顔にあたるのを感じながら、一年ほど前ならこうやって街中を走るのはシズちゃんに追いかけられていたときくらいだよなぁなんてことを考えられるくらいには、あまり緊張感のない追いかけっこだった。土曜日だったから人はそこそこいたものの、ぶつからずに上手くかわす方法は化け物のせいで身についていた、にも拘わらず、容易に相手の腕を掴むことができなかったのは俺が思っていたよりもあちらが上手く逃げたせいだ。足は遅い、でも人混みでの動き方はよくわかっているようだった。向こうの運動神経がもっとよければそのまま逃げ切られるんじゃないか、なんて思っていたのに、相手はどんどん人気のないほうへと向かっていく。今俺が捕まえられない理由をもしかしたらわかっていないのかもしれない。
人がギリギリすれ違うことができるような狭い路地に入り、そのまま走っていく。障害物さえなければ俺と相手との距離は縮まる一方だ。目の前の相手は大きめのコートを羽織っていて身体のラインは解りづらい。でも、走り方がいかにも素人のそれで、捕まえてしまえば口を割らせるのは簡単に見える。だからあと数メートルというところで曲がり角に消えた相手を何の躊躇もなく追いかけていた。
もし尾行してきた人間がプロだったらそれなりに身構えていたとは思う。そういう場所って待ち伏せにはうってつけじゃないか。そんなことはわかっていたのに無防備に曲がり角に飛び込んでしまった俺はやっぱり少し日和っていたのかもしれない。
「……っ!」
自分よりも先にいる、と思っていた相手は曲がった先で、まるで俺の進路を塞ぐように立っていた。いや、塞ぐどころかそのまま俺のほうへと走り込んできた。
咄嗟に身体を横に動かし、相手の体当たりのような動きに対処できたものの、狭い路地の壁に勢いよくぶつかってしまう。肩が痛い。だけど動けないほどじゃないからすぐさま体勢を立て直し、相手へと対峙する。不意をつかれなければ素人相手に遅れをとることもないだろう。
すぐに何か攻撃をしかけてくるだろうと思っていたのに、俺が視線を向けたときに相手は俯いた状態だった。
「……?」
意味がわからない。正直、あのタイミングなら何か害を加えられてもおかしくなかった。目の前の人間が格闘技の類を身についていればそれはより現実的だったんじゃないかな。
身体に合っていないコートを身につけているせいで相手の手は指先しか見えていなかった。大きめのものを選んでいるのは武器を隠すためだろうという俺の判断はたぶん、間違っていない。まさか拳銃は出てこないだろうと思いたいが、身体能力が低い人間が足りないものを補うためには強力な武器に頼ることもあるものだ。こんな狭い場所で仮に銃弾が跳んできたら避けるのは難しいかもしれない。
頭の中で目まぐるしく計算をしている俺を余所に、フードを被った人間は、はぁ、と溜息を吐いた。
「無理かなぁとは思ったんですよね」
聞き覚えのある声に警戒心が緩む。相手に気づかれないように取り出していた折りたたみ式のナイフを掴む手の力を解くよりも早く、目の前の子供がフードを取り払う。
「顔を合わせるのは久しぶりですね、臨也さん」
フードの下に隠れていたのは、俺の記憶よりも少し伸びた黒髪と、相変わらず歳より幼く見える顔に、尾行していたことがバレた人間が浮かべるにはやや不釣り合いな微笑だった。
「久しぶりなのに中々な挨拶だねえ……竜ヶ峰帝人君?」
わざとらしく呆れを目立たせた俺の声に彼は、すみません、と謝罪をしてくるからそれには喉で笑って返す。素直に自分の非を認めて謝るのは大人しそうな彼の外見に合った美徳の一つだ。
サンプル了