(fake)Love delibery







04-08



「やあ、いらっしゃい」
 ドアを開けた瞬間に出てきた、それはもう晴れやかで楽しそうな笑みを見た瞬 間僕の脳裏には某猫と鼠が延々追いかけっこをするアニメの一幕がよぎっていった。回れ右をし両手をあげたままここから風のように走り去れたらどんなによ かっただろう。一瞬それを現実にやろうとして、すぐに彼の腕が僕の衣服を掴むビジョンが見えたからすぐに諦めた。簡単に諦めるのはよくないけどできもしな いことをやろうとするのは愚か者のすることだ、ってネットで見かけたような気がする(そのネットの文面も何かの本からの引用だったはずだ。覚えてないけ ど)
「おじゃま、します……」
 マリアナ海溝より深いため息を吐きたいのを無理矢理こらえ、鉛のように重くなった足をのろのろと動かして彼が開けているドアの向こう側へと入る。どうぞどうぞ、とやけに機嫌のよさそうなその声とは真逆に僕のテンションは急降下していた。
  入った先の玄関は簡素なもので、傘立てと小さな靴箱、それに来客用のスリッパが置いてあるだけだった。見るからに高そうなそれに足を入れてもいいものかと 悩みながら履いていたスニーカーの踵を踏むように脱いだ僕の耳に、がちゃん、という音が入る。それも二回。このマンションの扉は鍵が二つあるのをインター ホンを鳴らす前に見ていたから、ご丁寧に彼が上の鍵も下の鍵も閉めたんだろう。
「あの、」
 このスリッパ、使ってもいいんですかと聞こう として振り向いた、ことを少し後悔した。鍵を閉める姿って普通はドアに向かっている状態のはずだ。にも拘わらず、彼はどうやら後ろ手に閉めたらしくい。自 然僕と彼は向かい合うような状態になる。にこにこにこ、と擬音がつきそうなほど楽しげな笑みを浮かべている姿には正直ちょっと引きそうだ。それはそのまま 僕の体勢にも現れてしまい、一歩下がろうとしてすぐに踵が上がりかまちにぶつかる。そんなに広くない玄関だから上がりかまちといっても数センチ程度しかな い。勢いよく後ずさっていたらそのまま廊下に背中から転がっていたんじゃないかな。
「何?」
 十センチほど上から見下ろしながら、彼は相 変わらずオノマトペを撒き散らしているような笑みを浮かべたまま首を傾げた。艶やかな黒髪がさらりと流れ、たったそれだけの仕草でも絵になるのだから美 形って本当に得だよなぁと浮かんだ率直な感想は口にせず、このスリッパは使ってもいいんですかと問いを投げかけた。
「もちろん。君のために用意したんだから」
  どうぞ、と掌を上にして彼がスリッパの方を恭しく差す。なんなら手を引いてあげようか、なんていう軽口は無視したままスリッパをぺたぺたと鳴らしながら廊 下を進んだ。後ろからは僕が立てているような間抜けな足音は聞こえない。廊下の奥にある扉を開けるときにさりげない風を装って彼の足下を見ると僕が履いて いるものと色違いのスリッパがあった。履き慣れているのか単なる足の筋力の問題なのかわからないが、どんなときであれあまり物音をたてないのはなんとなく 彼らしいなと思う。らしい、というほど知ってるわけじゃないが。
 ドアを開けた先に広がっていたのはそんなに大きくないソファとローテーブル、そ れと真向かいになるように置かれている液晶テレビ。部屋の隅には観葉植物が置かれていた。この部屋がリビングにあたるんだろうけどあまり広さを感じない。 八畳程度だ。単身者向けのマンションの間取りならそんなものか。
「……っ」
 室内を観察するように見回していると唐突に後ろからぽん、と 背中を叩かれた。肩胛骨の間、背後からのし掛かられたときに抑えつけられると動けなくなる場所だ。今僕は立っているからそんなところを触られてもなんとも 思わないけどうつぶせになっているときはあまり触れられたい場所じゃない。彼がそれを意識してやってるのかたまたまだったのかはわからないが、それに押さ れるように一歩前に踏み出す。
「ソファにでも座りなよ。今、お茶をいれるからさ」
「あ、あの、お構いなく!」
 彼は言うのと同時 にリビングと続きになっているキッチンへと入っていったから慌ててその後ろ姿にそう声をかける。僕はここにお茶を飲みに来たわけじゃなく、ついでに言うと 時間のカウントは既に始まっている。それは彼もわかっていることだろうに僕の声を聞いても、いいからいいから、と言ってそのままお茶の準備を始めてしまっ た。
「…………」
 このままここに突っ立ったままでいるのもどうかと思って言われた通り、ソファへと足を向ける。その足下に持ってきた鞄 を置き、どこに座ればいいか悩んで結局、一番出入り口に近い方の端へ腰を下ろした。二人座ればそれで定員いっぱいになってしまうであろうこのソファがいく らくらいなのか僕には検討がつかないが、指先に触れる感触は本革っぽいからたぶん僕が普段見ている格安家具量販店のチラシに載っているような値段に零が一 つ追加されるんじゃないかな。もしかしたら二つくらいくっつくかもしれない。
 視線を上に向けるとそこにあるのはシーリングライトだ。どこの一般 家庭でも見かける標準的なそれに少し眉間に皺が寄ってしまう。蛍光灯の光って室内を明るく照らしてくれるけど、その分僕みたいにあまり日焼けのしていない 人間の肌はことさら生白く見えてしまう。シティホテルのようにダウンライトや、そこまで照明器具に気を遣わないまでもせめて白熱ランプにでもしてくれれば もうちょっと健康的にも見えるのに。だから僕はこんな風に家へ訪問するのは苦手なんだ、ホテルのほうがよっぽど気を遣わずに済む。
 ため息を零し ながら視線を上から降ろし、きょろきょろと周囲を見渡す。部屋に入ったときには気付かなかったけど奥に扉が見えた。それ以外は最初に目に入ったテレビと観 葉植物以外に小さな本棚が一つ、テレビの横に置いてある。中に並べられているのは意外にも僕でも聞いたことがあるような小説のタイトルだった。知らないも のもあるが、少なくとも仕事の資料にはとても見えない。暇つぶし用なのかな。
 ソファとその本棚がもっと近い位置にあれば手を伸ばして、手持ちぶ さたな状態を誤魔化すために一冊パラパラとめくったりもできたんだけどローテーブルが間にあるからそれは叶わない。別にソファから立つなと言われてるわけ でもないが僕自身があまり動きたくなかった。それというのも、この状態が僕にとっては青天の霹靂とも言えるもので地味に頭の中は混乱が渦巻いている。
 こんな状況になるなら今日は休めば良かったと思ったところでもう遅い。後から悔やむから後悔で、覆水は盆に返らないとよく知っている。
「お待たせ」
「あ、いえ」
  彼は、気の利いた食器がなくてごめんね、と薄っぺらい謝罪の言葉と共に僕の前にマグカップを一つ置いた。シンプルな白い磁器製のものだ。出されたものに口 をつけないのもどうかと思い、ありがとうございます、と礼を述べてから手に取る。掌に伝わってくる温度は空調の効いてる室内でほどよいと思えるものだっ た。
 中に入っていたのは甘い色合いをしたコーヒーで、牛乳がたっぷり入っているらしいそれを一口含む。見た目通りの甘さだ。自販機に売られてい る缶コーヒーのようなベタつく甘さにならないのは豆も砂糖も違うからなんだろう。質の良いカフェオレに視線を注ぐ僕の隣が人一人分の重みにきしむ。彼が腰 を下ろしたせいだ。
 近い、と思いはしたもののこれ自体が二人がけ用なんだから仕方ない。でも僕がこうやってできるだけ隅っこになるように座って いるんだから、彼も反対側にできるだけ寄ってくれればいいのに。そんな僕の思いがわかった上で彼はこうしているんだろうけどさ。何せ彼は人間観察なんてい う悪趣味を持っているんだから、僕のこのいたたまれなさがわからないわけがない。
 いっそソファから立ち上がろうかと思ったがそれをしたところでこの気詰まりな空気が払拭されるとは思えず、僕はただひたすらマグカップに集中することにした。できればこっちから口を開きたくない。
  開きたくないが、それでも無言のままでいられるのも困ってしまう。今の僕にできることはマグカップの中身を減らすことだけで、それも半分くらい飲んでしま うとこれを飲み干した後、僕はどうしたらいいんだろうかという新たな悩みがわいてきた。このままずっとマグカップを握りしめているわけにはいかない、さす がにそれは給料泥棒になってしまう。
「…………」
 そうっと視線を横に滑らせる。てっきり僕のほうをにやにやと観察しているかと思ったの に、彼は背もたれにゆったりともたれかかって自分のカップに口をつけていた。片手で取っ手を持っている姿はやけに優美に見える。見かけはまったく同じマグ カップなのにこの違いは何だろうか、やっぱり外見の問題なのかな、と思いながらこくりと喉を鳴らしてカフェオレを飲むと、不意に彼が小さく笑った。
「何? 俺の顔に何かついてる?」
  目と鼻と口がついてますよ、と軽口でも叩いてみたほうがいいんだろうか。これが正臣が相手ならビューティーホーな俺の顔のパーツをそんな丹念に眺めないで くれ、なんて馬鹿な答えが返ってきそうだけど彼なら何て言ってくるだろう。眉毛を忘れてるよ、と平然とした顔で言うのかもしれない。
「そんな盗み見るみたいにせずに真正面から見たらいいのに。別にお金をとったりなんかしないんだしさ」
「いえ、別に……」
  確かに彼の容姿は金銭を払ってでも見る価値がありそうではあるが、だからと言って僕には同性を鑑賞する性癖なんかない。でもそれを彼に言うと小馬鹿にした ような顔で、へぇ? と返されてしまいそうだ。そんなお仕事してるのに? なんて聞かれたら僕としても答えに困るのであまり下手なことは言わないでおこ う。
 口を開けばそれだけ僕は自分に不利なことしか言いそうになく、それならさっさと自分のペースに巻き込んでしまったほうがいい。そう心に決めて、僕はまだ中身が少し残っているマグカップをローテーブルの上に置いた。それから彼と向き合うように身体をソファの上で動かす。
 そんな僕を興味深そうに眺めながら、彼は自身のカップから口を離し、中身を混ぜるように小さく揺らした。
「ご予約は三時間、ですよね?」
 何の、という目的語を抜いた言葉に彼の目が細くなる。その視線がネズミをいたぶるネコのものとよく似ていて、この人は本当に性格が悪いなと胸中で文句をつけながらそれはおくびにも出さず言葉を続けた。
「知ってるかと思いますけど既に時間は始まっているんです。残りはあと……二時間と四十五分ですね」
「延長もできるだろ?」
「……セット価格より高くなるのであまりお勧めできません」
 いつも口にしているものと同じ言葉を言うと彼は喉で笑った。
「俺はそっちの世界には詳しくないんだけど、普通は少しでも延長させて稼ぐものじゃないの?」
「僕は無駄なお金を使ってもらいたくないだけですよ」
  それは本心だ。ただし、本音の内の三割くらいしか締めてない。残りの七割は長時間同じ人を相手にするのは面倒だ、なんて客相手には聞かせられない理由なの で黙っておく。でも彼は透けている僕の考えなどお見通しらしく、お金の心配なんてしなくていいよと嬉しくない台詞を口にした。
「それよりもゆっくり君と話がしたいんだよね」
 僕はしたくない。今まで接客してきた中にも会話を楽しみたいという相手がいなかったわけじゃないが僕はあまり話術に長けていないから楽しませることができないし、何より、彼とおしゃべりだなんて一体何を話せというのか。
「一時間一万二千円、三時間で三万三千円だっけ? ゲイ向けのデリバリーヘルスとしては普通の値段なのか教えてよ」
 会話の種を振ってくれるのはありがたい。でも、にやにやとした笑みを浮かべたままの彼の声を聞いて自分の立場は鼠ではなく捌かれるのを待つまな板の上の鯉なんだと自覚した。









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