シュレディンガーの猫(サンプル)








04-11



 九月になれば少しは涼しくなるんじゃないかな、なんていう期待は楽天的すぎる考えだということは薄々わかってはいた。今年の夏は特に梅雨明けが遅かったし、蝉の鳴き声も七月の後半になってようやく、あ、鳴いてる、と認識できたようなものだった。夏の始まりが遅かったのなら当然終わりはその分ズレこむことになる。
 来良学園は私立のおかげで教室もエアコンが完備してあるから涼しいけど、それでも登下校の間はさんさんと降り注ぐ日差しと姦しい蝉の鳴き声を聞かなきゃいけない。あの音を聞くだけで体感温度が三度は上がる気がする。
 少しでも涼しくなるように制服の上はシャツ一枚、下はもちろん下着とズボンだけというのは高校生としてなんらおかしくない装いだと思うのだけど、女子生徒は違うらしい。今僕の目の前にいる少女はこの暑い中カーディガンを着て下校するつもりのようだ。暑くないのか聞いてみたところ、そんなことよりも日焼けをすることのほうが恐ろしいのだという。日焼けは皮膚がんの原因になるからかなと、絶対違うとわかっていながら見当違いなことを思うのは暑さで頭が茹だってるせいかもしれない。
 気温に反するような長袖はふと脳裏に情報屋の顔を自然と思い立たせた。臨也さんのあの格好が日焼け対策だったらどうしよう、なんて考えるのは現実逃避をしたいからかもしれない。逃避とは言っても、現在の会話の主題である彼を思い出してる時点で意味がないような気がするけど。
「ね、竜ヶ峰くん。お願い?」
 下駄箱の前で突然声をかけてきた彼女は確か、去年同じクラスだったはずだ。
 色白でほっそりとした体躯と、おそらく自前であろう長い睫毛やそれが縁取っている大きめの目がどこか小動物を思わせる彼女は男子達にもそこそこ人気があったような気がする。あんまり興味がないからそんな噂話をふられても流していたんだけど、目の前で見ると確かに彼らの言う通りどこか庇護欲をそそるものがあった。でも明るめの茶色に染められた肩までの髪をさらり、と揺らしながら小首を傾げる姿は自分の容姿がどのように映っているをよく認識しているようにしか見えなくて、なんだかなぁと思ってしまう。
 愛らしい仕草が似合うと自負している目の前の少女は両手を唇の前で合わせ、上目遣いのまま先ほどから同じ頼みを僕に繰り返していた。
 曰く、折原さんに自分を紹介してほしいのだそうだ。
 これを言われた瞬間僕が思わず両目を瞬かせ、目の前のこの少女が実はただの女子高生じゃないという可能性について様々な憶測を巡らせたことなんて言うまでもない。だって臨也さんだよ、新宿の情報屋で、愉快犯で、はっきり言って余計なことしかしないというか、自分が楽しむためだけにしか最善を尽くさないような、自分に害が及ばない、遠くで見ている分にしか楽しくないような相手とつながりを持ちたい、なんて言われれば一体どんな理由があるんだろうかと気になるに決まっている。しかもわざわざ僕に聞いてくるあたり、ちょっとくらい勘ぐってしまうのもしょうがないんじゃないかな。
 一年前の夏休みの間に起こった怒濤の様々な事件は、一応の収束を迎えながらも未だ色鮮やかに池袋の街で語られている。突然道路に降ってきた生首だとか、都内の駐車場でカラーギャング同士の抗争があったことだとか、平和島静雄が警察に捕まっていたことだとか。
 それらの原因なのか、単なるちょっと手を出しただけなのかまで判断はつかないけど全部に臨也さんが絡んでいたことは確実だ。
 その彼が過大評価してくれているのが不本意ながらダラーズの創始者で、それが自分だというのだから世の中妙な歯車がときどき転がってるものだなと思う。
 黄巾賊とダラーズは半ば共倒れのような形で決着がついた。今では街で黄色の何かを身につけている中高校生の子を見かけることはないし、元々色を持たなかった僕が作った組織の方は『自分はダラーズなんだ』と主張する人間がいなくなった。ただネットにあるダラーズの掲示板は相変わらず利用者はいる。あと数年もしたらダラーズというのはカラーギャングの一つではなく、池袋の噂話をしてるサイトの名前という認識に変わるんだろう。それを見守るのも悪くないと思って管理人だけは続けることにした。正臣はそれにはあまりいい顔をしなかったけど、ダラーズの掲示板のアフィリエイトも生活費の一部なんだよと言えば頭を抱えていたっけ。それを見ていた園原さんは曖昧に笑うだけだった。
 僕と正臣と園原さんがばらばらになることになった原因のダラーズも黄巾賊もなくなれば、また前と同じように三人で一緒にいられるんじゃないかなぁなんて思っていた。ブルースクウェアと組んでいるときに我ながら甘い考えだとは気付いていたが、園原さんが来良学園を転校したことでどうやったって過ぎた時間を取り戻すことはできないんだと思い知らされた。
 園原さん自身は学校を変わることはまったく考えていなかった、とは言っていたものの、保護者の人の強い要望があったんだからしょうがない。彼女の保護者が赤林さんだとは知らなかったんだけど、あの人が言うんならしょうがないか。僕が何をしていたかも、正臣がどう動いていたかも……園原さんが何者なのかということも全部おそらくわかった上で、それでも彼が園原さんに保護者として言った指図は転校しろというそれだけだった。僕や正臣に会うなとも、連絡をとるなとも言わない心情なんて子供である僕にわかるはずもない。
 転校していった先は都内の有名な女子高校だ。放課後に会うと毎回正臣が長々と演説のようにいかに園原さんにそこの制服が似合っているかを語りながら口説こうとする姿はある意味お約束みたいなものになっている。以前ともう一つ違う点はそれに突っ込むのは僕だけじゃなく正臣の彼女も増えたということだ。ときどき本気で正臣に付き合うのが面倒なときがあるから突っ込み要因が増えたことは本当にありがたい。
 ダラーズを壊したときに、今度は園原さんも正臣も堂々と誘えるような組織を作ろうなんて考えたりしていたけど、族するコミュニティーが違っても変わらず一緒にいられるのだとわかってからは面倒な気がして手を出すのをやめた。今年受験を控えているからというのも理由の一つだ。
 僕は結局、非日常を作り出したいのでも、その中に飛び込みたいわけでもなくただ眺めていたいだけだ。花火は間近で見たら火傷を負うが遠すぎたら迫力に欠ける。それと同じでほどよい場所に立って、ただ日常にはない火の粉が舞う姿をきれいだと鑑賞するくらいが自分にはちょうどいい。
 だからこそ火の粉をまき散らしたがる人間とはあまりコンタクトをとらないようにしているんだけど、その類の人間である後輩は最近大人しく……はしてないみたいだけど彼は彼で楽しくしてるみたいで積極的に僕に絡んではこない。
 もう一人、青葉君が似てると言われている臨也さんだけど、何故だかときどき街でばったり会うことがある。
 本人は、やあ偶然だね、なんて彼の人間性を知らなければ人が好さそうだと言える笑みを浮かべて言ってくるが、彼に限って意味なく他人に会うはずがない。それも天敵がいる池袋で。
 それがわかってはいるのだけど、彼が話す内容には首を傾げてしまう。

 夏の日差しはまだ続くそうだよ。

 ウサギや齧歯類は柔らかいものばっかり食べさせてると前歯が伸びすぎて怪我するらしいから、硬い物もちゃんとあげなきゃいけないんだって。そういえばサーベルタイガーっているだろ? あれも牙が伸びすぎて死んだやつとかいそうだよね。

 都会は夜も気温が下がらないし明るいから蝉が昼間と勘違いして鳴くんだよ。耳障りだけどしょうがないか。

 囲碁とか将棋に興味はある? まあ他の競技でもゲームでもいいんだけどさ、プロと一般人の違いは考えずに動けるかなんだって。何度も思考を繰り返すことでそういう風に神経回路が発達するんだって。もちろん、その回路を使わなくなったらできなくなるらしいけど。

 エアコンの温度を一度上げるだけで十パーセント省エネになるそうだけど、君の家には関係ないか。

 山の中にときどき獣道があるんだけど、そういうところに生える植物ってそこを通る生き物に種子を付着させたり、果実を食べさせて種を運ばせて分布を広げるらしいよ。よくできてるよね。

 はっきり言おう。どの話題も僕にとっては、はぁ、と相づちしか打てないものばかりだ。臨也さんも特に何か僕に言ってもらいたいわけじゃないらしく、突然何の話をしているんだと胡乱な目を向ける僕を見てにやにや笑った後に背を向けてそのまますたすたと歩いて去ってしまう。最初のころはわざわざ話しかけてくるのだから何か意味があるのかと少し身構えていたけど、どうやらあんまりないらしい。たぶん甘楽さんのことだから、あの無意味そうな会話にも何かしら意味があるんだろうなと見せかけて、たぶんまったくないんだろう。何か裏があるに違いないと思考を巡らせることを楽しんでるに違いない。
 どちらにせよあの人のやりそうなことはわかっても考えてることなんてわからないんだから放っておこうと思っているのに、目の前の同級生は街中で僕と彼が話している姿を見かけたらしい。あまり頻繁に会ってるわけでもないからタイミングがいいというか、悪いというか。
 しかも臨也さんを紹介してほしい理由が、かっこよかったから、だなんて。僕が現実逃避をしたくなってもしょうがないじゃないか。
 新宿のオリハラとして有名な人なんだと思っていたんだけど、考えてみれば普通に生きてて情報屋なんて職業の人のことを耳にする機会はない。ダラーズであれば掲示板にときどき名前が出てきているけど、目の前の少女はカラーギャングの類には興味がなさそうだ。それよりも年頃の女の子らしく一目惚れした相手となんとか連絡を取る方法を模索するほうが重要なんだろう。
「ごめん、それは無理」
 さっきから何度も繰り返している言葉を再度告げてみたが彼女は諦めず、どうして、と尋ねてくる。
 そこまで親しいわけじゃないから、連絡先も知らないし、と言ってみたけど、私は名前だって知らないんだよ、協力してくれないなんて酷いと見当違いのことを言い出す始末。酷いも何もどうして僕が力を貸すことを前提として話をしているのか。僕が彼女にそんなことをする義理はまったくない。
 ここが下駄箱の前でなければごめんね、じゃあと言ってその場から逃げ出していた。それができないのは無理だと断る僕と、どうしても引こうとしない彼女の問答がいつの間にか人目を集めてしまっていたせいだ。端から見たら美少女のお願いを一蹴しているようにしか見えないらしくてひそひそと囁く声と、責めるような視線が突き刺さってくる。それも全て計算してここで僕に声をかけたんだろうと思うとやっぱり彼女は外見とは違う中身の持ち主だ。きっと僕が頷くまで自分の主張を曲げないに違いない。
「……連絡先を、渡すだけなら」
 散々悩んで、絞るようにして返した声に彼女はパっと嬉しそうに顔をあげた。その心からの笑顔は可愛いのに、すぐにカーディガンのポケットから携帯の番号とメールアドレスが書いてある二つ折りの紙を渡してくるんだから恐ろしい。
「本当に渡すだけだよ」
 そもそも渡す機会があるかどうかも自信がない上に、仮に渡せたとしてもあの人が連絡をとるかもわからない。
 臨也さんは自分の気がむいたときにしか僕の前に顔を見せないし、僕の携帯にあるあの人の電話番号は随分前に正臣に消されたからこちらからはコンタクトのとりようがなかった。
 あんな人との繋がりなんてない方が彼女の平穏な学園生活は守られると思うんだけど、本人がどうしてもと言うんだから僕がそこを心配してあげるなんてそれこそ彼女にとっては余計なお世話にしかならないのだろう。
 彼女はにっこり笑うと僕の両手を握った。柔らかな手は少しひんやりしていて握られたことに不快感は感じない。
「ありがとう、竜ヶ峰くん!」
 彼女がそう言ったことで、ようやく僕は針のむしろのような視線から逃れることができた。






 正直なところ、彼女の連絡先を彼に渡すことよりも彼に会うまでに僕がこの紙切れを無くしてしまう可能性のほうが高いかもしれないと悩んでいたから帰り道に、ぽん、と背を叩かれたときには彼はどこかで僕らの会話を見ていたんじゃないかと馬鹿げたことを一瞬本気で考えてしまった。
「どうしたの? 鳩が散弾銃くらったみたいな顔して」
 そんなものをくらったら表情を作るまでもなく鳩は穴だらけになる。
 なんてくだけた突っ込みをするほど親しい相手でもないのでその言葉には曖昧に笑った。本当に神出鬼没だな、この人。でも正臣達と待ち合わせしている放課後に会うことはまずないから彼はある程度の僕の予定を調べて姿を見せているんだろうと思うと、実は情報屋という仕事は暇なんじゃないかと思いつつ、ちょうどいいとばかりに唐突に姿を見せた臨也さんにさっき預かったばかりのメモを手渡した。
「え? 何?」
「受け取ってください」
「いや意味がわからないんだけど。何これ? ラブレター?」
「まあ、似たようなものですね」
 臨也さんに一目惚れしたって彼女は言っていたんだからラブレターと言えばそうなのかもしれない。ああでも、この人のことだからそういった類のものはよくもらってるんじゃないかな。だとしたら受け取った瞬間そのままぽいとその辺に捨てるかも。個人情報が書いてあるんだからもしそんなことになったら、とりあえず拾って家のゴミ箱に捨てるくらいはしてあげよう。元クラスメイトのよしみとして。
 だけど臨也さんは僕の予想を裏切り、驚いたことにそれを両手で受け取るとまじまじとそれを見つめた。
 裏返したり、陽に透かしたりする仕草は子供っぽく見える。心なしか頬が朱いように見えるんだけどたぶん気のせいだろう。
「気が向いたら連絡してくださいね」
「それはこのラブレターの返事をしたらいいってこと?」
 臨也さんは相変わらず彼女が用意した手紙を二つ折りにして中身を見ないまま、じっと僕の顔を見つめてそう言った。
 返事も何もそこには彼女のメールアドレスと電話番号くらいしか書いていない。でも僕は彼女の気持ちを伝えることまで頼まれたわけじゃないし、役目である連絡先を渡すことはやったんだからあとは当人達の問題だ。好きにしたらいい。
 役目を終えたことでほっと肩の荷が下りた僕はそのまま臨也さんに背を向けて家に帰ろうと、踵を返した瞬間に、ぐえ、と喉からうめき声が転がった。臨也さんが僕が肩に斜めにかけている鞄の紐を引っ張ったせいだ。
 何かまだ用があるんだろうか。いつものあの、意味があるのかないのかわからないトリビアもどきの話なら僕にじゃなくそこらへんの壁にでも聞いてもらえばいい。相づちが必要だと言うのなら今渡した連絡先の彼女なら大人しく聞いて……くれるかどうかは知らないけど、僕よりは臨也さんに時間を割きたいと思うんじゃないかな。
 嫌がってる人間を相手にして何が楽しいのかわからないが文句の一つくらい言わせてもらおうと渋々未だ鞄の紐をしっかりと握っている臨也さんのほうに振り返る。彼は目が合った途端柔らかく微笑んだ。
「いいよ」
 言われた意味がわからなかったのは、耳に入った言葉よりも目の前の表情に気を取られたせいだ。少し恥じらいながらも幸せそうな笑顔、なんて折原臨也に似合わないにもほどがある。
 いいよって何がだろう。ああ、彼女に連絡してもいいよってことか。それなら僕が彼女に糾弾される可能性はなくなるから大変ありがたい。したたかではあるけど情報屋のオリハラのことは知らないようなので何か悪いことをするんだったら僕に苦情が来ないようにしてくださいね、と一言くらいは言っておこうと思ったのに、臨也さんがその後続けた行動は僕の予想を超えていた。
 彼から取り返した鞄の紐を整えようとしていた僕の両手を彼の左右の手が掴み、胸の前あたりまで持ち上げると、こう、のたまった。
「これからよろしくね?」
 小首を傾げた姿にデジャヴを覚えたのは、ほんのついさっき靴箱の前で似たような仕草を見たからだ。自分の外見がどんな作用をもたらすのかをよく理解している姿。僕を見下ろしながら男が頬を染めてそんな仕草をしても不気味なだけ、というか、これ臨也さんくらい美形だからまだ両手を大人しく掴まれたままでいるけど、そうじゃなかったら悲鳴をあげながら警察に駆け込みたくなる。
 それぐらい今の絵面は端から見たら滑稽に映るに違いない。この道は人通りが今の時間帯は少ないけど、皆無というわけじゃないから意味のわからないことを言ってないでさっさと解放してほしい。
 その意味を込めて腕に力をこめてみたけど放してもらえない。
「あの……」
「なあに?」
 ぞわぞわと背筋に何か這い上がるような甘い声だった。何かも何も、悪寒以外の何者でもない。それ以外であってたまるか。
「手、放してもらえませんか?」
「何で?」
「何でって……どうして僕が手を掴まれないといけないんですか」
「手を握るのはあんまり好きじゃない?」
 握るというよりは拘束じゃないのかな、これ。
 ぐっと両手に何度力をこめても解放してもらえない。臨也さんはさっきと反対側に首を傾げてそんな僕の様子を見てるけど、放してもらいたがってるのはわかっているんだろうからそのがっちりと掴んでいる手を緩めてもらえないだろうか。
「そこまで嫌がられると、さすがにショックなんだけど」
 なるほど、今までこんなことをしても嫌がらないような人間しか相手にしてこなかったらしい。もし僕が女の子だったら嬉しいと思えたんだろうかと一瞬考えたが、そもそも僕は男なのでやっぱり同性にこんなことをされても微塵も嬉しくない。同じように手を握られるにしても、僕のことを何とも思っていないとわかるあの元クラスメイトの子のほうがどれだけ良かったことか。
 臨也さんの手は無骨とは言わないけど当然女性のように滑らかなわけでもない。指は長いけど筋張ってるし、特には今は僕の手を握るのに力を込めているせいで筋肉のラインがきれいに通っている。そういえば前、池袋で静雄さんと追いかけっこをしているときに片手でビルの看板にぶらさがってたことがあったっけ。自分の体重を腕一本で支えられるんだから腕力はもちろん、握力だって僕とは比べものにならないんだろう。ダラーズの内部を粛正しているときに多少鍛えていたとは言え池袋の喧嘩人形相手にタイマンをはれる人と僕とじゃ勝負になるわけがない。だから臨也さんのほうからさっさと放してほしい。
「嫌がるに決まっているでしょう。僕もあなたも男ですよ」
「うん、そんなの今更じゃないか。わかっててラブレターをくれたんだろ?」
「……?」
「嬉しいな、帝人君も同じ気持ちだったなんて」
 ふふ、と言葉の通り顔を綻ばせている彼は何か、恐ろしい勘違いをしている気がしてならない。あまりそこを言及したくはないが、かと言って誤解をされたままだと放してもらえないんじゃという思いで恐る恐る尋ねてみた。
「あ、あの……ラブレターって、さっき、の?」
「それ以外に君からもらったものはないんだけど」
「あれ、僕からじゃないですよ」
 わざわざ言わなくても普通に考えればわかる、はずだった。
 それなのに目の前の紅い目が驚いたように大きく見開かれ、ぱちぱちと瞬きを繰り返したものだから慌てて言葉を続ける。
「ちゃんと中を見てくださいよ! あの紙、僕は学校の子に頼まれてあなたに渡してくれって言われたんですっ」
 一目惚れだったそうですよ、僕とあなたが話してるのを見かけてどうしても連絡がとりたいって言ってましたとさっきまではそこまで言ってやる義理なんてないと思っていた言葉をべらべらとまくし立てる。誤解を解こうと必死になっている僕の目を臨也さんはじっと見つめてくるが、黙ったままなのが不安でしょうがない。
「ええと、」
「はいっ」
「つまり、君からのラブレターじゃないってこと?」
「そうです、もちろんです!」
 ようやく口を開いてくれたことに力を得て思わず叫ぶように相づちを返してしまったが、至近距離で大声を聞かされても臨也さんは特に気にしていないようだった。
 つまりも何も最初からそう言っている。そもそも何で僕がそんなものを渡すと思い違いができるのか、僕と臨也さんは男同士なんだからラブレターを渡そうという発想なんか出るわけがないのに、と思ってから脳裏にほんの数分前のこの人の言葉が再生された。
『帝人君も同じ気持ちだったなんて』
 …………。
 だめだ、これは深く考えないでおこう。考えたら負けな気がする。
 相変わらずしっかりと手を握ってくる臨也さんは視線を下に向けてしまった。少し長めの髪が顔に影を作っているせいでいまいち表情がわからないけど、さっき浮かべていた笑顔が消えていることだけはわかる。でもそれに僕が罪悪感なんて覚える必要はないはずだ。








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